小浜の見解(2)
コメント、ありがとうございます。なかなか手ごわい反論ですね(笑)。
木下さんの、感情育成としての愛国心教育はやはり必要であるという論旨は、よく理解できました。以下の部分、よく論理の筋が通っており、なかなか微妙なところを突いたバランスのある主張で、これなら「しないよりはした方がマシ」という程度で、その必要を認めてもよいと思います。
≪小浜さんが誰を念頭においているかは分かりませんが、仮にそういった教育が劇的な効果を生むと主張する人がいたら、たしかに言い過ぎだと思います。ですから、そういった教育の効果が長期的なものだとか、微弱だとかいう意見には一理あると思います。しかし、有益な効果が絶大だろうが微弱だろうが、ベクトルが有益な方へ向いているなら為すべきでしょう。過剰な愛国心教育が危険になるのは当然なので、適切な教え方を考えた上での話になりますが。≫
ただ、私がサヨクでないことは先刻ご承知でしょうが、やはり、実際に愛国心教育の必要を説いている人たちの熱心ぶりを見ていると、彼らのナイーヴさが気になります。よりよい、実力ある国家共同体をつくるために、どこに主力を注ぐべきかという点に関して、少々力の入れ場所をはき違えているのではないかという疑念がずっと私の中にあり、それが、愛国心教育の効果薄弱を論じる隠れたモチーフの一つになっていました。
具体的に名を挙げましょう。八木秀次さんや渡辺利夫さんといった人たちです。私は彼らの意図はよくわかりますし、著作から勉強させてもらったこともあります。その思想に共鳴できる部分もあって、実際に協調したこともあります。また彼らはけっして≪劇的な効果を生む≫と主張しているわけではないし、≪過剰な愛国心教育≫を目指しているわけでもありません。しかし私が彼らをどうもナイーヴ(愚直)だなあと感じるのは、愛国心教育や道徳教育こそが一番大事なところなのだと信じているフシがあって、そのために、たとえば経済政策の重要さなどに視野が及ばなくなっている点、また、どうしても自国のいいところばかりを強調してしまう主観的な傾向から免れがたいように思える点です。
愛国心教育も適切な経済政策も、まさに統治の方法の一つですが、私は後者のほうがはるかに重要な意味を持つと考えています(その点で、私は安倍政権に不満を持っているわけですが)。
衣食足りて礼節を知る――もし国の代表がこの優先順位を誤れば、いくら愛国心教育や道徳教育に精力を注ごうと、国は乱れ、愛国心などはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。
それから、この人たちの愛国心教育提唱のモチーフには、昔に比べていまの時代(戦後日本)には一種のモラルハザードが起きているという危機意識が強く、それを個人主義の弊害と結びつけて、何とかしなければならないという信念に凝り固まっているように見える点です。しかし、ある側面ではたしかにそういうことが言えても、私は全体としていまの日本が昔よりも道徳的頽廃の度を強めているという見方を取りません。昔はよかったというのはウソです。
ここでは述べませんが、これには多くの社会学的、統計学的な証拠を示すことができます。だからこそ、震災や他国の侵略圧力やテロなどがあると、愛国心教育を施したわけでもないのに、日本人同士助け合おうという合意(理性的な国民意識)がかなりの割合でいっせいに立ち上がるのだと思います。
また、感情の共有がなければ理性的な公共心も成り立たないというご意見にも賛成です。それは、私自身が、国家機能は同じ国民であるという心情によってこそ支えられると書いているのと、そんなに違わないと思うのですが。
繰り返しになりますが、私は「愛国心」という言葉のニュアンスが持っている幅の広さ、つまり概念のあいまいさが、ポジティブ・ネガティブ両面の価値観を与えて、そのために不毛な感情的対立を生じやすいことを問題としているのです。「心情の一致」とか「同国人意識」という言葉に比べて、「愛国心」という言葉はやや感情的に過ぎ、「それを持たない奴は非国民だ」とか、「そんなものを大切にするから戦争を呼び込むのだ」とかいった断定につながりやすいと思いませんか。つまりある場合は、粗野な排外主義に結びつき、別の場合には、国家の役割(人倫性)をきちんと認めずに空想的な平和主義・コスモポリタニズムに走る傾向を助長する――そんな気がしてならないのです。
次に木下さんは、私が、≪日本の外に出て≫行くことや、≪内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機≫について、≪有効≫だと述べたことについて、必ずしも有効とは思えないと反論しています。
これも私の舌足らずが災いしているかもしれませんが、私は、愛国心教育の有効さを頭から信じるよりは、比較相対的に見てそういう自然な成り行きのほうが有効に思えると言っているだけです。ただし、これには条件が必要ですね。その条件とは、実際に自分の国の現実的状態(治安、経済、政治、安全保障、生活の利便性その他)がまあまあうまく行っていることです。そしてまさに日本は今までのところ、客観的に見て、他国に比べてこの条件がかなり満たされています。こういう国では、経験的な契機に比べて意識的な愛国心教育の効果はたいへん低いと思います。
では反対に、国の現実的状態が乱れているところで愛国心教育を躍起になって施せば、それが一般民衆の間に育つことによってそうした国の危機を克服できるかといえば、そちらのほうもまず望めないでしょう。それこそ国民は逃げ出すほうを選ぶでしょう。
木下さんは、外国に行って外国かぶれになったり日本批判をし出す人はいくらでもいると述べています。これは日本に限らず、一般論としてはその通りでしょう。しかし私は日本の健全なナショナリズムが何によって支えられているかということを問題にしたい。それは、島国という地政学的条件や、言語の同一性(他の文化圏との異質性)、相手をよく思いやる伝統的な慣習、などですね。こういうものはふだんあまり意識されませんが、それはまさにありあまる水や空気のようにありがたいものだからでしょう。こういう国では、私が述べたような経験的な契機によってより深く意識されることが多いと思います。なお私は危機待望論者ではないので、危機などはないに越したことはないのですが、ただ日本の現実がそういうふうになっている、という事実を強調しておきたいのです。
なおまた木下さんは、安全や便利さを期待して帰国するのではあまり意味がないと述べていますが、私はそう思いません。安全や便利さは、すべてではないにしても、一般民衆がその国を好きになる(つまり愛着を持つ)大切な理由の一つとして肯定的にとらえるべきだと考えます。だからこそ、それらを保障する統治のあり方(対外関係も含めて)が厳しく問われるのではないでしょうか。私は、統治によって、常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できるなどと想定しているわけではありません。ただよりよい統治とは何かということを考えているだけです。少なくともそれを考えるという点で一致できるのでなければ、愛国心教育の効果についての議論も意味がないでしょう。
次に、二つの「自分たち」についてですが、私自身のあるべき国家観からすれば、別に二つは矛盾していません。日本国民全体という言い方が少し強すぎて誤解を招くとすれば、一般国民と言い換えてもよい。彼らの最大の関心事が「自分たち」の幸福と安寧にあることは否定しようもありません。しかし、「自分たち」の幸福と安寧が、ただ特定のかぎられた個人や集団のそれだけを意味するのであれば、当然、国家全体の秩序と平和は維持できませんね。過剰なエゴイズムや物欲に走って得々としている人たちを、少しでもいいから、進んでそれら(の一部)を捨てる気持ちにさせるには、どういう方法が一番いいか。議論はたぶんここをめぐっていると思うのですが、まず、彼ら(たとえばかなりブラックなグローバル企業)に「愛国心を持て」とか「いざというときには国家のために身を捨てろ」などといくら説いても無駄でしょう。ではどうすればよいか。
法による規制というのがすぐに出てくる答えですが、この法規制にしても、どうやってその意義を理解させるのかという問題が次にやってきます。
私はこの場合、七割くらいは性悪説、あとの三割は性善説に立っているので、一番有効なのは、それによって多少の不利益をこうむっても、全体としては、また長い目で見れば、まあ従っておく方が身のためだなと感じさせる納得の道をつけてやることだと思います。仮に、こういうことが可能だとして、ではなぜそれが可能なのかと考えると、それは彼らのうちにも、他の人たちの利益と幸福につながることが結局は自分の利益と幸福に結びつく、情けは人の為ならず、そういう、いい意味での功利主義精神が、彼らにも少しは宿っているからです。これは、潜在的な公共精神の萌芽といってもいい。それをうまく引き出すのが統治の技術です。
ちなみに私は、ある精神が潜在的か顕在的かを区別することは重要だと思っています。その度合いいかんによって、公共心を強く実行に移す人もいれば、ふだんは私利私欲に走っていて、なかなか腰を上げない人もいるという違いが出てくるのでしょう。後者の人たちをアゴラに連れ出す操作(これは家庭でのしつけの段階から始まっていますね)を、広い意味で「教育」と呼ぶことに私は異議を唱えませんが、なるべく上からの強制的な「教育」という印象を与えない形で、自然に、その方が自分にとっていい、と思わせるやり方のほうが得策だと思います。
最後にルソーの「一般意志」についてですが、これを出したのはやや不用意でした。ルソーの思想は、当時の時代背景を考えないと一筋縄では理解できない複雑さを持っており、「一般意志」の概念も、誤解を受けやすい概念ですね。ただここでは、国民の大多数に共通する意志という程度に受け取っていただければ結構です。なお、ルソーと聞くと、フランス革命の生みの親のように考えて、その結果に対する毀誉褒貶の評価と直結させて論じる人が多いですが(たとえば近代民主主義の輝かしき元祖、逆に悪しき全体主義の源)、思想と現実とは必ずしも一致しませんから、私はこうした考えを取りません。
ちなみに、ご関心があれば、次の拙稿を参考にしてください。
『表現者』54号掲載「誤解された思想家たち――ジャン・ジャック・ルソー」
佐伯啓思著『西欧近代を問い直す』(PHP文庫)の巻末解説
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