愛国心は必要か(後編)

木下の見解(3)

 小浜さん、真摯なお返事ありがとうございます。自画自賛になってしまいますが、建設的な議論が展開されており、たいへん嬉しいです。

 議論の内容が多岐にわたっているため、見ていただいている方たちのためにも、少しまとめさせてください。私の認識不足などあれば、ご指摘していただけると助かります。

(A)愛国心教育について
 感情育成としての愛国心教育については、その程度について微妙な差はあるかと思いますが、その必要性は共有できていると思います。ありがとうございます。

(B)ナイーヴな愛国心教育について
 名前を挙げられた二名については、正直なところあまり興味がありません。彼らの主張が経済政策の重要性を引き下げたり、自国を不用意に持ち上げたりする言説なのでしたら、具体的な文章を基に批判していけば良いと考えます。

(C)愛国心教育と経済政策について
≪愛国心教育も適切な経済政策も、まさに統治の方法の一つですが、私は後者のほうがはるかに重要な意味を持つと考えています。≫

 相対比較になりますが、前者は感情に関わり、後者は理性に関わっています。
 論理には感情と理性の両方が必要であり、ヒュームを参照するなら感情の方がより重要だと言えなくもないですが・・・。どちらもそれなりの独立性があるのですから、私は両方有益なのだから、両方やれば良いのだと考えます。

(D)衣食足りて、について
衣食足りて礼節を知る――もし国の代表がこの優先順位を誤れば、いくら愛国心教育や道徳教育に精力を注ごうと、国は乱れ、愛国心などはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。

 ここが、私と小浜さんの思想上の違いになります。

 西部邁さんがどこかで述べていたと思いますが、衣食足りて礼節を知るというのが片面の真実だとしても、衣食足りて礼節を忘れるという片面の真実もあります。私は、そもそも衣食足りず状態になったときのためにこそ、愛国心教育が必要だと考えています。
 後述の(H)(J)(K)の見解につながります。

(E)道徳的頽廃について
 昔はよかったというのがウソだという意見には、犯罪率などの面から同意します。

 ただ私は、道徳は秩序状態と緊急事態の両面からとらえなければならないと考えています。その観点から、一側面からは頽廃しているとは言えませんが、一側面からは頽廃していると言えると思います。例えば、平然と「アメリカに守ってもらえばよい」と言うような人がいることなど。
 この点については、おそらくお互いの認識にズレはないと思います。

(F)国民の心情について
 ≪それは、私自身が、国家機能は同じ国民であるという心情によってこそ支えられると書いているのと、そんなに違わないと思うのですが。≫

 感情育成としての愛国心教育の必要性が共有されているので、同じ認識ですね。

(G)愛国心のニュアンスについて
 ≪愛国心≫という言葉があいまいに使われているなら、不毛な感情的対立になる理由を検討し、不毛にならないように定義づけをきちんとして論ずべきだと考えます。

 ≪愛国心≫という言葉はやや感情的に過ぎることには同意しますが、≪心情の一致≫とか≪同国人意識≫という言葉だって感情的でしょう。理性だけでは、≪心情の一致≫も≪同国人意識≫も原理的に出てこないからです。

 また、≪愛国心≫の代わりに≪同国人意識≫という言葉に置き換えても、(右翼方面はともかく)左翼方面は同じようなイチャモンを付けてくると思います。

(H)危機の有効性の条件について
 ≪こういう国では、経験的な契機に比べて意識的な愛国心教育の効果はたいへん低いと思います。≫

 ≪では反対に、国の現実的状態が乱れているところで愛国心教育を躍起になって施せば、それが一般民衆の間に育つことによってそうした国の危機を克服できるかといえば、そちらのほうもまず望めないでしょう。≫

 う~ん。秩序状態も緊急事態も、どちらも望み薄と言っているように聞こえます。確かに、乱れきったところでは無効だとは思いますけどね。
 二点ほど述べておきます。低くても有効ならちゃんとやろうというのが一点。それと、まあまあうまく行っているときに感情育成としての愛国心教育を行っておくことで、危機に際して団結力が生まれます。つまり、危機に際しての備えとして、意識的な愛国心教育が必要だというのがもう一点です。

(I)健全なナショナリズムについて
 ≪それは、島国という地政学的条件や、言語の同一性(他の文化圏との異質性)、相手をよく思いやる伝統的な慣習、などですね。≫

 そうだと思います。だからこそ、意識的な愛国心教育が必要なのでしょう。

 具体的には、国語教育(日本語能力の育成)・歴史教育(まず日本史、次いで世界史)、思想史教育(道徳そのものではなく、道徳の系譜学)が重要ということになります。

(J)意識されないときについて
 ≪こういうものはふだんあまり意識されませんが、それはまさにありあまる水や空気のようにありがたいものだからでしょう。こういう国では、私が述べたような経験的な契機によってより深く意識されることが多いと思います。≫

 やはり、ここが意見の相違になります。秩序状態のときにこそ、緊急事態を想定していなければなりません。この考えは、会沢安の『新論』などから学んだことです。

 ですから、秩序状態のときの安全や便利さが自国への愛着になり、緊急事態への対応力につながるなら、それは肯定すべきものになります。しかし、緊急事態においてより安全で便利なところへ逃避するものでしかないなら、それは肯定できなくなります。

(K)統治について
 ≪私は、統治によって、常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できるなどと想定しているわけではありません。ただよりよい統治とは何かということを考えているだけです。少なくともそれを考えるという点で一致できるのでなければ、愛国心教育の効果についての議論も意味がないでしょう。≫

 よりよい統治を考えるという点では、私たちは一致しています。逆に、それについて一致していない人など、極端な反国家主義者を除けばほとんどいないでしょう。

 私が言いたいことは、常によい統治を実現できるわけではないからこそ、緊急事態を想定せねばならず、そのときのために秩序状態のときの教育が重要になるということです。

(L)「自分たち」について
 たとえ日本について同国人意識を有する人でも、≪自分たち≫の範囲は状況に依存するので、そこは明確化しておかないと議論が混乱するということですね。ご提案のような≪一般国民≫や、あるいは「日本国民」といった言い方をするのが有意義だと思います。

(M)長期的利益について
≪一番有効なのは、それによって多少の不利益をこうむっても、全体としては、また長い目で見れば、まあ従っておく方が身のためだなと感じさせる納得の道をつけてやることだと思います。≫

 長期的利益のために短期的不利益を享受させる方法の採用について、基本的に同意します。ただ、それですと、特攻のような極限状況には逃げ出す人間ができあがりますね(苦笑)。ここにも、私と小浜さんの微妙な違いがあるように思えます。ですから、私はこのような方法に「も」賛成すると言います。

 私にはさらに考えておくべきことがあります。それは、この世は不条理なものであるが故に、いかんともしがたい状況がありえるということです。そのときを想定している者は、自分がそのような状況に遭遇することを踏まえた思想が必要になるのです。

 オルテガの『個人と社会』に、次のような文章があります。

 環境がわれわれに対してどのような出口も、したがってどのような選択もゆるさないかに見える生の極限状況を叙述しようとするとき、われわれは「剣と壁のあいだに立つ」という。死は確実なものであり、どのような抜け道もない!少しでも選択の余地があるだろうか。しかしながら、そうした表現は、剣と壁とのあいだの選択をわれわれにゆるすものであることは明らかである。これは人間の恐るべき特権であり、享受することもできれば苦悩の原因ともなる光栄である――すなわち卑怯者の死か英雄の死か、醜い死か美しい死か、など自分の死の姿を選べるという特権である。

(N)教育の印象について
 ≪なるべく上からの強制的な「教育」という印象を与えない形で、自然に、その方が自分にとっていい、と思わせるやり方のほうが得策だと思います。≫

 これについては、おそらくはその通りなのでしょうが、私は違う道を模索しています。

 それは、強制的な教育の必要性を教えた上で、教育を実施するという方法です。得策という観点からは、私の方法が今のところ不利なことは認めますが、今後煮詰めていきたいと考えています。

(O)ルソーについて
 『表現者』54号掲載の論考を再読させていただきました。ルソーと全体主義の関係については議論の余地がありますが、論考のルソーについての見解に基本的には同意します。

 議論を通じて、大まかな同意には至ったのではないかと思われます。微妙な意見の相違は、(D)(H)(J)(K)(M)(N)に見られます。

 (D)(H)(J)(K)については同じ論点であり、秩序状態と緊急事態の関係にポイントがあります。私なりに要約すると、小浜さんは秩序状態のときの愛国心教育よりも、緊急事態による理性的な国民意識の高まりが有効と言っているように聞こえます。

 それに対して私は、緊急事態において理性的な国民意識が働くためには、秩序状態のときの愛国心教育が重要だという見解です。つまり、比較相対的に見てどちらが有効かを論じるというのはあまり有意義ではなく、補完関係として考えるべきだと言いたいのです。

 また、(M)と(N)の見解の相違については興味深いですね。それぞれの人生観によって、意見に相違が生まれているような気がします。

→ 次ページ「小浜の見解(3)」を読む

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西部邁

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