『永遠のゼロ』を私はこう見る
- 2014/12/24
- 文化
- 永遠の0, 百田尚樹, 藤井聡
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多くの異なる価値観のせめぎ合いの中で葛藤し、それを全て果たそうとする“超人的”な宮部に、観る人は感動を覚える
さて、戦後の中心的な価値観は、「いのちの大切さ」ということになり、戦前・戦中の価値観では「いのちを捨ててもお国のために闘うべきだ」ということになるでしょう。そうしてこの二つの価値観が、ほぼ、女性的な倫理観と男性的な倫理観とにそれぞれ対応することも納得してもらえるでしょう。さらに言えば、宮部久蔵というキャラクターが、両者を兼ね備えつつ、しかもその根本的な矛盾を、最終的には身を後者のほうへ捧げ、魂を前者のほうへ捧げることによって止揚・克服したのだということも。
作者・百田氏は、日本にとってあの戦争のどこがまずかったのかという根本的な問題をよくよく考えたうえで、こういうスーパーヒーローを創造しています。宮部の人となり、ふるまいを見ていると、こういうキャラが許容されるような軍であったなら、つまりそういう余裕のある雰囲気が重んじられていたなら、日本のあの戦争(和平・停戦への努力も含めて)はもっとましな結果になっていたに違いないという、戦中日本への批判が強く込められていることを感じます。
実際、この作の中で百田氏は、ひとりの語り手をして、机上で地図とコンパスだけを用いて作戦を立て、ゴロゴロ死んでいく兵隊たちを将棋盤上の歩兵のようにしか考えていない参謀本部(軍事官僚)のハートのなさを強く批判させています。そういう側面では、この作品は、たしかに「いのちの大切さ」を第一義に立てる戦後的価値観を代弁していると言えましょう。
しかし一方、宮部久蔵は、パラシュート降下する敵兵を容赦なく殺すし、空母と油田を爆撃しなかった真珠湾攻撃作戦の不徹底さを批判してもいます。撃墜されないように過剰なほど用心しますが、それは自分だけこすからく生き残ろうと状況から逃避しているのではありません。現実には隊長として部下の命をあずかりつつ、いかにして眼下の敵を撃墜して勝利するかという合理的な算段に心血を注いでいるのです。彼は少しも反戦思想の持ち主ではないし、ここぞと思うときには誰よりも的確にその優れた戦闘技術を発揮します。こうした側面では、この作品は、戦争をただ感情的に忌避して空想的平和主義に安住する戦後の空気への痛烈な批判とも読めるのです。
「いのちの大切さ」「命をかけて戦わなければならない時がある」この両方を、人は欲するのではないか
「いのちの大切さ」といった戦後的な価値の抽象性をそのままでよしとすることはできません。この価値は、抽象的なぶんだけ、人間には命をかけて闘わなければならない時がある、というもう一つの価値を忘れさせます。じっさい、この戦後的価値が作動するときには、超大国頼み、金頼み、無策を続けて状況まかせ、憤るべきときに憤らない優柔不断、何にも主張できない弱腰外交、周辺諸国になめられっぱなしといういくつもの情けない事態を招いてきました。それが、私たちがさんざん見せつけられてきた戦後政治史、外交史の現実です。
しかし逆に、「命をかけて闘わなければならない時がある」という言い方も、それだけでは抽象的であり不十分です。問題は、どういう状況の下で、どういう具体的な対象に対してなら「命をかけるに値する」と言えるかなのです。敗北必至であることが少なくとも潜在的には感知されている状況の中で、いたずらに「命をかける」という価値を強調すれば、結果的に多くの「犬死」を生むことにしかなりません。美学や一時の昂揚感情が軍事上最も必要とされる戦略的合理性を駆逐して、多くの前途ある若者を犠牲に供し、あとにはやるせない遺族の思いが残るだけです。
宮部がよりどころとしているのは、抽象的な「公」でもなければ、抽象的な「いのち」でもありません。彼がよりどころとしているのは、結婚して日の浅い妻と、いまだ会うことのかなわない子どもという具体的な存在です。抽象的な「公」も抽象的な「いのち」も、一種のイデオロギーであり、実体の不確かな超越的な観念にほかなりません。どちらにも誘惑の力はあり、それに引き寄せられていく心情は理解できます。しかし、抽象的な「公」理念にひたすら奉仕すれば、具体的な「いのち」を犠牲にしなければならず、抽象的な「いのち」理念をただ信奉すれば、公共精神を喪失しただらしない無策や無責任が露呈する危険が待っています。
こうして、宮部久蔵が体現している思想は、戦後のイデオロギーでもなく戦前・戦中のイデオロギーでもない。それは、生活を共有する身近な者たちが強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方です。そこに私は、戦前を懐旧する保守派思想にも、国家権力をただ悪とする戦後進歩思想にも見られなかった新しい思想を見るのです。それは男女双方が持つ人倫性の融合態だと呼んでもよいでしょう。
その意味で、『永遠の0』は、まさしく戦後レジームを文化の領域で脱却しえている画期的な作品だと思うのです。
※1:『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その3)|小浜逸郎・ことばの闘い
本文との記述が一部重複します。
※2:「倫理の起源」直近の文章は、以下のURLで読むことができます。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/d91b8fc80e663a2305a58cc25c540fc9
コメント
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私の過去記事について、言及されております。
私のような素人に、小浜氏のような一流の批評家が丁寧に応えてくださるというのは、望外の喜びです。
小浜氏は、〈木下氏は、藤井氏の『永遠の0』批判に対して言論人が公式に論じることを求めていますが、ここではそれはしません〉と述べておられます。
ですが記事には、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉とか、〈例のエッセイは、慣れないことに手を出してつい軽薄なことを言ってしまった「ミステイク」であるとみなします〉と記載があります。その記載内容で、私には十分です。
『永遠の0』に対する考察も、素晴らしいです。
もっと読み込んでみて、何か論じられそうでしたら私も記事を投稿してみようと思います。