『永遠のゼロ』を私はこう見る

宮部は異なる価値観が自己の中で強烈にせめぎあう中、全てを一切捨てなかった

 代わりに、原作では宮部を知る者の語りという作品の構成上、描くことができなかった私生活的な場面が二つ挿入されています。一つは、一泊だけの休暇で帰宅した宮部が、わが子と初めて対面して入浴させ、妻との別れ際に、離れがたくて背面から顔を寄せる妻に対して、「私は必ず帰ってきます。手をなくしても足をなくしても……死んでも帰ってきます。」ときっぱりと約束するシーン。もう一つは、はじめは大石の援助に拒否的だった松乃、その子・清子と大石との間に、やがて愛情が芽生えて育ち、家族のように睦まじくなっていくプロセスを描いたシーン。
 いずれもとても細やかな映像で表現されていて、観る者の涙を誘わずにはおきません。この二つのシーンは、私の言葉ではエロス的な関係の描写であり、非常に重要な意味を持っています。

 宮部久蔵は戦争という状況の中にいるかぎりは勝たなければ意味がないという信念の持ち主です。だから不合理な作戦には上官に逆らってでも異を唱えます。何のために?
 「お国のために」というスローガンは、それだけでは、崇高に見えるぶんだけ超越度が高すぎます。しかし「身近な愛する者たちのために」ならば時代を超えて、だれでもそのロジックに納得するでしょう。そうしてこの場合重要なのは、何々のために「死ぬ」ではなく、何々のために「勝って生還する」という構えです。「お国のために」は、背後にこうした精神の裏付けがあってこそ意味をもつのです。

 たとえば与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は、身近な愛する者に向かって、生きて還ってきてくれることを切に願う歌であり、それが「大みこゝろ」に必ずかなうはずだと訴えている「女歌」です。宮部の言動は、男の側からそれに一心に応えようとした「男歌」だったと言えるでしょう。

 しかしひとりのうつしみは、現実には国家的共同性(公)とエロス的共同性(私)の両方を背負わざるを得ません。そればかりではありません。敗色濃厚な戦局のさなかにあって、宮部は、学徒特攻要員の育成という、前途ある有能な人材を次々に死地に追いやる職業的役割を果たさなければなりませんでした。ここで彼の苦悩はいよいよ深まります。教官としての職業倫理と、身近なものを救わなければならぬという個体生命倫理とがまず葛藤します。

 さらに教えた者たちのなかには、自分の命を捨て身で救ってくれた生徒(大石)もいます。その間に介在するのは、単に抽象的な個体生命倫理ではなく、かけがえのない友情というもう一つの具体的な人倫性でした。この人倫性もまた、職業倫理との間に葛藤を生み出さざるを得ず、こうしてこの段階で、宮部久蔵という一つの身体は、公共性と個体生命と友情という三重の人倫性を一気に背負うことになります。それらのどれか一つを「選択」して貫くということが到底かなわない状況の下で。

 やがて宮部と大石を含む特攻隊要員はいのちの離陸地点である鹿屋基地に配属されます。当座、宮部は特攻機の目的を遂げさせるために、特攻機を敵機の攻撃から守る直掩機に搭乗します。しかし特攻機は、装備を格段に向上させた敵艦の迎撃に遭って、目的を達する前に次々に海中に墜落してゆく。宮部は自分の無力を日々痛感して、その形相は別人のように変わり果てていきます。ぎらついた目と無精ひげとひとり部屋の片隅に頑なにうずくまる姿。この鬼気迫る形相は、映画ではじつによく描かれています。

 こうして、迫りくる戦況の切迫情勢と、すぐ目の前で次々に命を落としてゆく若き「戦友たち」に何ら援助の手を差し伸べられない激しい無力感とによって、妻子の下に必ず生還するという彼の最大の価値感情は、無残にも押しつぶされてゆきます。死んでゆく戦友たちをさしおいて自分の日ごろの信念を貫くことはもはや不可能だ――作品に直接描かれてはいませんが、おそらくこの絶望が、彼をして特攻隊員への志願をぎりぎりのところで決断させたのでしょう。しかし彼は信念を曲げたのではない。恩人であり戦友である大石隊員の命を救う試みと、妻子を助けてほしいというメモ書きによる大石への委託。これこそは、その信念を生かす道を最後まで捨てなかった証拠ではないでしょうか。

 こう考えてくると、絶望的な思いを抱えながら遂に特攻隊志願の道を選んだ時点における宮部の身体は、単に国家的共同性(「お国のため」)とエロス的共同性(愛しい妻子のため)とのねじれに引き裂かれていただけではないことがわかります。彼は、若き同志たちを目の前で次々に失ってゆく残酷な光景、それでも(それだからこそ)自分の磨きぬいた技量を使い尽くして敵を倒さねばならぬという職業的使命、これらによってもまた引き裂かれています。言い換えると、公共性、個体生命、友情、職業、エロスという五つの異なる領域における人倫の命令が互いにもつれ合いながら、苛酷にも宮部の身体にいっせいに襲いかかっているのです。

 それにもかかわらず、宮部はこの四分五裂した自らの身体から、命の瀬戸際で自らの信念(魂)を救い出す方法をかろうじて見つけ出しました。身は公共性と職業が要求する人倫性のほうへ、そして魂は、友情とエロスが要求する人倫性のほうへ分割して奉納したのです。だから、彼の魂は、戦友・大石と妻・松乃の下へと帰ってきた。そうしておそらくは孫たちの下へも。魂は殺されなかったのであり、それは、近代国家という公共体の下にではなく、友情とエロスという実存のふるさとのほうに帰還したのです。
ここで、映画作品での一連の印象的な展開について触れておきたいと思います。

映画版『永遠の0』の映像でならではの表現

 宮部の命を救った大石が入院しているとき、宮部が見舞いに訪れ、妻が念入りに修理してくれた外套を大石にプレゼントする。大石は戦後もずっとその外套を着ている。彼がようやく松乃の家を探し当てて戸口に立った時、松乃は男の影が差すのを見て警戒し、思わず箒に手を伸ばす。じつはこの箒に手を伸ばす場面は、宮部が不意の休暇で帰宅した時にも出てくる。両者は意識的にダブらせてあるのだ。そうして戸が開くと、松乃はそこに宮部の姿を見る。だって自分が精魂込めて修理したあの外套を着ているではないか。一瞬後カットが変わり、立っているのは見知らぬ男・大石である。

 外套を小道具に使ったこの展開は見事です。まさに宮部の魂が帰ってきたことが暗示されているのです。

→ 次ページ「多くの異なる価値観のせめぎ合いの中で葛藤し、それを全て果たそうとする“超人的”な宮部に、観る人は感動を覚える」を読む

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西部邁

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コメント

  1. 私の過去記事について、言及されております。
    私のような素人に、小浜氏のような一流の批評家が丁寧に応えてくださるというのは、望外の喜びです。

    小浜氏は、〈木下氏は、藤井氏の『永遠の0』批判に対して言論人が公式に論じることを求めていますが、ここではそれはしません〉と述べておられます。

    ですが記事には、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉とか、〈例のエッセイは、慣れないことに手を出してつい軽薄なことを言ってしまった「ミステイク」であるとみなします〉と記載があります。その記載内容で、私には十分です。

    『永遠の0』に対する考察も、素晴らしいです。
    もっと読み込んでみて、何か論じられそうでしたら私も記事を投稿してみようと思います。

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