『永遠のゼロ』を私はこう見る
- 2014/12/24
- 文化
- 永遠の0, 百田尚樹, 藤井聡
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当サイトに、藤井聡氏のエッセイ「永遠にゼロ?」(2014年9月9日 三橋経済新聞掲載)に対する木下元文氏の辛辣な批判が寄せられました(「藤井聡の『永遠にゼロ?』への失望の仕方」9月14日掲載)。私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが、言論人の端くれとして、特にこの論文の最後に書かれた以下の部分に強く惹きつけられました。
私の今の関心は、「本物」が出てくるかどうかです。(中略)一連の藤井の『永遠の0』批判に対し、知識人や言論人の誰かが公式に論じることがありましたら、(コメントなどで)是非とも教えていただけると助かります。そもそも現代の日本に、「本物」がいるのかどうか知りたいのです。
じつは私も百田尚樹氏の原作『永遠の0』(2006年)および山崎貴監督の同名の映画作品『永遠の0』(2013年)が大いに気にかかっていた者の一人です。以前、自分のブログで前者については詳しく触れたことがあり(※1)、また同ブログで現在進行中の「倫理の起源」という稿で、原作と映画の両方についてほどなく拙論を発表するつもりです(※2)。
作品を「“よく”鑑賞」するためには、創造的、主体的エネルギーを働かせなければならない
木下氏は、藤井氏の『永遠の0』批判に対して言論人が公式に論じることを求めていますが、ここではそれはしません。というのは、私は藤井氏の一連の国土強靭化論と不況脱却のための財政出動論に大いに賛同しており、それが彼の仕事の本領であると考えて、その面では彼を尊敬しているからです。そこで例のエッセイは、慣れないことに手を出してつい軽薄なことを言ってしまった「ミステイク」であるとみなします。文化批評は、その対象が優れたものであればあるほど、作品そのものに丁寧につきあう綿密な手続きと、磨かれた感性による厳しい鑑賞力とが必要とされます。藤井氏があの作品の批評に当たって、それらを表出するだけのエネルギーを注いでいないことは確かなところでしょう。
ところで私自身にそういうものの持ち合わせがあるかどうか甚だ心もとなく、また自分が木下氏の求める「本物」の名に値するかどうかまったくわかりませんが、ともかくあの作品をどう読んだか(見たか)、すでに「倫理の起源」の草稿として書いた部分から抜粋してこの場に示そうと思います。藤井氏に対する批判の代わりと受け取っていただければ幸いです。
じっくり観れば見えてくる、『永遠の0』の“画期的な”面白さ
原作と映画の両作品は、大東亜戦争期と2000年代初期との60年以上を隔てた二つの時期を往復する枠組みのもとに作られています。現代の姉弟が、特攻隊で死んだ実の祖父のことを二人で調べ始め、生き残り兵士たちを苦労して探し当てて話を聞くうち、祖父の意外な側面がしだいに明らかになってゆきます。ゼロ戦搭乗員の祖父・宮部久蔵は、必ず生きて妻子のもとに帰ることを信条としていたにもかかわらず、なぜ特攻隊に志願したのか。この謎を中心にドラマは進行し、最後近くになって劇的な展開を見せます。その劇的な展開の部分を略述してみましょう。もはやネタバレを恐れる必要はありますまい。
義理の祖父・大石はじつは教官時代の宮部の生徒であり、宮部を深く尊敬している。ふだんは極度に用心深い宮部が、訓練指導中に珍しく油断して米軍戦闘機の攻撃にさらされた時、大石は機銃の装備もないままに体当たりで宮部を救う。この深い縁で結ばれた二人は、もはや敗戦間近の時期、偶然にも同じ日に鹿屋基地から特攻隊員として飛び立つことになる。出発間際に宮部は飛行機を代ってくれと大石に申し出る。宮部は、自分の機のエンジン不調に気づき、大石が万に一つも助かることを期待してこの申し出をしたのである。というのも、エンジンが順調ならその搭乗員は100%死ぬが、不調で飛行不能となれば不時着することが可能となるからである。こうして大石は救われ、宮部はただ一機、激しい迎撃をくぐり抜けて敵空母に激突する。大石の機には、「もし君が運良く生き残り、自分の家族が路頭に迷って苦しんでいるのを見つけたら助けてほしい」という宮部のメモが残されていた。大石は四年後ようやくバラック住まいで困窮している宮部の妻子を見つける。その後、何年も彼らのもとに通って援助し続けるうち、やがて親愛の情が深まり、大石と妻・松乃とは結婚する。しかし、あれほど生き残ることを強く主張していた宮部が、なぜ特攻に志願したのか、核心部分のいきさつを語ってきた当の大石さえその理由をうまく表現できない。
私はこの二作を、エンターテインメントとしての面白さもさることながら、重い倫理的・思想的課題を強く喚起する画期的な作品だと考えます。その画期性のうち最も重要なものは、戦後から戦前・戦中の歴史を見る時の視線を大きく変えたことです。この場合、戦後の視線というのは、単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギーを意味するだけではありません。その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向をも意味しています。言い換えると、この両作品は、戦後における二つの戦争史観の対立を止揚・克服しているのです。
コメント
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私の過去記事について、言及されております。
私のような素人に、小浜氏のような一流の批評家が丁寧に応えてくださるというのは、望外の喜びです。
小浜氏は、〈木下氏は、藤井氏の『永遠の0』批判に対して言論人が公式に論じることを求めていますが、ここではそれはしません〉と述べておられます。
ですが記事には、〈私も木下氏の藤井批判にほとんど賛成ですが〉とか、〈例のエッセイは、慣れないことに手を出してつい軽薄なことを言ってしまった「ミステイク」であるとみなします〉と記載があります。その記載内容で、私には十分です。
『永遠の0』に対する考察も、素晴らしいです。
もっと読み込んでみて、何か論じられそうでしたら私も記事を投稿してみようと思います。