政府支出を巡る藤井・飯田討論について
- 2014/3/12
- 経済
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土木・建設分野への支出は非効率?
今回の討論では主要な論点になっていないようですが、私自身は、
経済対策支出は効率的に用いられなければならない。その意味で、資材価格や人件費が高騰している土木・建設分野への集中投下は首肯し難い。
というVoiceにおける飯田氏の論述にも大いに疑問を感じます。
なぜなら、資材価格や人件費が高騰しているのは「過大な需要」が原因ではなく、1990年代後半以降の緊縮財政の下で半ば無理やり公共投資を削った結果として業界に生じた「供給力不足」によるものだからです。需給バランスを調整するのが価格メカニズムであることは経済学の基本の基本であるにもかかわらず、飯田氏の議論は価格変動と経済効率を混同しており、経済学者としてあまりにお粗末ではないでしょうか(多少切り口は異なりますが、青木氏の「飯田氏の曲解③:近視眼的な産業レベル・ボトルネック論」での指摘とも重なる部分があるのではないでしょうか)。
あるいは、現実の経済は上記で述べた供給力不足、即ち「不均衡」の状態にあるにもかかわらず、例によって主流派経済学的な、均衡状態にあることを前提とした議論を無批判に展開しているだけかもしれません。いずれにしても、机上の空論のそしりは免れないでしょう。
なお、現状は供給力の適正水準への回復が緒につくかどうかの段階にあり、最終的な問題解決には、藤井氏が指摘している「建設発注額単価の適正化(引き上げ)」が必要になると思われます。
もちろん、飯田氏が中長期的な公共投資の拡大を別途主張していて、「従って短期的な経済対策としては不要」というのであれば上記の論述にも筋は通ります。
しかしながら、前述の「飯田氏からのリプライ」の中に「社会インフラの整備は30年にわたる支出計画が必要である。そしてその方が、結果的には景気への好影響も大きいのでは」という記述こそ見られるものの、
- 長期の経済停滞に対しては緊急避難的な財政政策を行いつつ、継続的な金融政策による成長軌道への回復を目指すべきだというのが標準的な処方箋ということになるだろう。
- 90年代以降時を追うにつれて財政政策の有効性が低下している。
(以上、「リフレが日本経済を復活させる 経済を動かす貨幣の力」第6章) - 現在の日本の財政状況で、公共事業を相似拡大的に増加させ続けるというのは現実的な計画ではありません。(「乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問──藤井聡先生へのリプライ」)
というのが飯田氏の基本スタンスです。
してみると、上記の記述にしても青木氏が指摘するようにリップサービス以上のものではなく、やはり議論の仕方として非現実的かつ不誠実なものではないでしょうか。
(参考文献)
岩田規久男・浜田宏一・原田泰「リフレが日本経済を復活させる 経済を動かす貨幣の力」(中央経済社、2013年)
コメント
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民間の水増し投資の話は、設備投資のような中間財の場合はそこそこ起きえることであっても、最終財を無駄に買うというケースは少なく、GDPが最終財の売上(中間段階での付加価値の合計)であることを考えれば影響が小さいこと、また長期的には競争のある民間では利潤は限りなくゼロに近づく(製品の差別化による価格独占力の分しかなくなる)ため、無駄な水増し行動を行うような企業は赤字となり、退出している(全体に占めるウェイトは小さい)と期待できる、の二点でやはり政府部門とは異なります。
コメントありがとうございます。
まず、民間企業の設備投資も公共事業同様最終財ですので、そこは訂正させていただきます。
また、今回の論稿では、想定されておられるような枠組みの中で「民間・政府のどちらが効率的か?」という点についての問題に敢えて答えを出そうとしている訳でも、その枠組みにおいて飯田氏を批判している訳でもないことは、ご理解いただければと思います。
そもそも、主流派経済学が想定していない「内生的景気循環」というマクロレベルの不均衡を民間経済が生み出すという現実がある中では、「どちらが効率的か」という議論にあまり意味はないと思います。
むしろそうした現実を出発点として、「それぞれがどの社会的役割(事業)を担うのが適切か」を議論するべきでしょう。
そうした役割分担の観点からは、妙なひねりを加えず、必要とされる「従来型の公共事業」を粛々と行うことこそ、むしろ「まともな政府支出のあり方」と言えそうな気がしますが、いかがでしょうか。
飯田氏の言う「需要の過剰」は「供給力の不足」と同義です。「当初の価格の下における需要が、当初の価格の下における供給を上回る」という意味ですから。当然、その当初の価格では需給が一致しないので実際には価格が上がります。そして、飯田氏は土建業が技能産業化してしまったので短期的に供給力を増やせない、そのため通常は需要が供給を上回ったために価格が上がれば取引量が増える(この取引量が増えることが社会余剰を増やす=効率的になる)が、土建業の市場では供給が増えないために価格だけ上がって取引量が増えない、つまり効率的ではない、と主張しています。
実際、そこかしこで土建関連の価格上昇が言われているように、価格調整はかなり大幅に、広範に起きています。当初ある過大な需要は、供給力に合うところまで減少している可能性が高く、不均衡にあると考えるべき状況ではありません。価格変動と経済効率を混同するどころか、供給制約にある(供給曲線が垂直)時の価格調整と効率性についての非常に正しい考察をされています。
飯田氏は土建業が技能産業になったことが、公共事業で需要をつけても効率的にならない理由として挙げています。これは逆に言えば技能を獲得するだけの仕組みと、何より習得にかかる時間があった上でなら、効果があるということです。OJTが技能習得の中心になることを考えれば、企業が「一人前になるまで育てられるだけの期間、需要が続く」と思う必要があります。だからこそ、景気対策としての公共事業では、景気循環という数年の短いサイクルで政府からの需要が減ってしまうと企業が考えるため、失業者を新たに雇って技能習得を施し供給力を高めるという行動をとりません。労働者の側も、景気が回復に向かえば公共事業が減って首切りされるかもしれないような職業は嫌うでしょう。実際、昨年は公共事業の需要はそこそこ大きかったものの、建設業では人が減っています。そこで、飯田氏はもっと中長期的な、景気循環によって左右されることのない公共事業と、それを企業に信じてもらい新規に技能習得させる仕組み、そういったものが必要だと言っているわけです。それによって短期的には垂直(需要を増やしても取引量が増えず社会余剰が増えない)な供給曲線が、中長期的には右上がりになるのです。
コメントありがとうございます。
中長期的なコミットメントが必要、というご指摘はその通りですし、飯田氏が「リプライ」の中で、そういった趣旨の論述をしていることについては、今回の私の論稿でも言及しており、決して見落としている訳ではありません。
しかしながら、
①「財政政策はあくまで緊急避難的で、公共事業(あるいはそれも含めた財政支出総額)を拡大しつつけるのは非現実的」というのが飯田氏の基本スタンスである。
②この15年余りは、「財政支出総額抑制ありきの前提で、高齢化で社会保障支出が不可避な状況で帳尻を合わせるために、半ば機械的に公共投資を削り続けてきた」というのが現実の財政政策であり、その基本スタンスは未だに変わっていない(つまり、飯田氏の基本スタンスの下で中長期的なコミットメントを論じるのは、机上の空論でしかない)。
③米国大恐慌時のニューディール政策にしても、決して中長期的なコミットメントの下で行われていた訳ではない(均衡財政主義に囚われていたルーズベルトは、大統領2期目で一時緊縮財政に振れてしまい、「ルーズベルト恐慌」と呼ばれる事態を招いた)。レジームの転換点では「とにかくやってしまう」のも場合の手として必要。
④支出総額という観点で見れば、「消費税増税に対応した景気対策」とされつつも実態は前年度比緊縮予算であり、さらにその中に公共投資を含めないとなると、事実上「負のコミットメント」にすらなりかねない。需要が現状維持でも労働者の高齢化等によって供給力は減少していくのに、これでは致命的(傷口から出血が続いているのに医者が来るまで止血しない、と言っているようなもの?)。
⑤「中長期的な観点でしか人が反応しない」ことを前提に「供給曲線は垂直」と考えるのは、それこそ新古典派的な非現実的な想定。人はそこまで合理的ではない。現実には目先の変化に反応して技能を身に着けようとする動きは確実にあるはずで(しかも全てのプロジェクトで高度な技能の不足がボトルネックになっている訳でもないでしょう)、その結果は「中長期的な人的ストック」として蓄積され、④で述べた状況の改善に役立つ。しかも、事業の結果出来上がったインフラは、中長期的に役に立つ。
といった諸々の点を踏まえると、いただいたご指摘、あるいは飯田氏の議論は、やはりナイーブというか、きれい事でしかないように思います。
少なくとも15年以上の経済失政によって陥った現状から脱却するのはそうそう簡単な話ではなく、検討する際の前提を現実に即して真摯に見直し、地に足の着いた議論をすべきではないでしょうか。