政府支出を巡る藤井・飯田討論について
- 2014/3/12
- 経済
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「市場の合理性」こそ非現実的な前提
私自身は行動心理学については全くの門外漢ですが、上記のうち指摘④については、全くその通りだと思います。その意味では、最終的な結論においては藤井氏のそれに賛同する者です。
なぜなら、「日本経済の成長&景気循環メカニズム」で私自身が指摘した「民間部門の所得と支出のタイムラグによって生じる、内生的な景気循環(非効率のもととなる、一種の不均衡状態)」とは、
「個々の経済主体は中長期的な合理性とは必ずしも合致しない目の前の状況に左右され、かつ判断材料を得てから行動に移すまでに一定のタイムラグがある」のが現実の経済の姿である。
という、主流派経済学(「合理的経済人」によって経済全体が均衡していることを前提としている)とは真逆の前提から導き出したものだからです。
これは、例えば「企業が来年度の経営計画を立てる際、未知の与件に基づき全く新たな予測を立てるというよりはむしろ、当年度を含めた過去の実績を主な根拠にする」といった、ごく当たり前の事例を思い浮かべれば容易に納得できるでしょう。あるいは、藤井氏が挙げているケインズの美人投票の比喩に代表される「上がるから買う、買うから上がる」といった株式投資家の行動も、同様な行動原理に基づくものと言えるでしょう。
そして上記論稿では、20年弱の周期でバブル崩壊を伴うグローバルな金融危機が発生する原因を、内生的景気循環メカニズムで説明しています。また、こうした民間部門による不均衡・非効率状態を緩和するのが政府支出である、というのが、「経済政策のあるべき姿」で述べた私の持論です。
しかしながら、(行動心理学に拠ろうと内生的景気循環論に拠ろうと)このように相手が拠って立つ根本的な前提をひっくり返してしまうと、それがいくら正しかったとしても、討論自体が平行線、あるいは物別れに終わってしまうリスクが多分にあります。これでは当面の果実をほとんど得られないことが、(少なくとも経済学の世界における)非主流派にとっての「泣き所」です(もちろんそれとは別に、主流派経済学の非現実性を示しながら関係者を説得する努力は並行して行うべきでしょうし、実際藤井氏はそうされているのでしょう)。
政府支出と民間支出の優劣を論じるのは難しい
では、指摘①~③についてはどうでしょうか。実は私自身は、この部分に限れば飯田氏の方に分がある(厳密に言えば、これらの指摘で論破あるいは説得するのは難しい)と思っています。
まず①ですが、飯田氏はあくまで「平均的な」政府支出と民間支出を比較しているのであって、こうした個別事例の列挙では論破し切れないと思われます。
②に関しては、「少なくとも物好きな金持ちがそのことで満足する分、Bよりも主観的価値が高いではないか(要は他人からは理解不能な趣味への支出のようなもの)」という反論が成り立ちます。
③に至っては、飯田氏はあくまで「BとCの実際の経済効果は同じ」と言っているだけで、「Bは景況感に何の足しにもならない」と言っている訳ではありません。フロー効果の議論を持ち出したところで、「Cにおける、とある世帯への給付金」についても(付加価値概念の議論とは別に)実体的にBと同等のフロー効果が生じていることは事実であり、そこから先の使われ方(貯蓄性向、ひいては乗数効果)についても、両者にはっきり優劣をつけることもまた困難です(乗数効果についての青木氏の指摘なども、概念上の整理としては正しいかもしれませんが、飯田氏への反論としては少々ピントがずれているように思います)。
「統計の泣き所」は民間支出にも存在するのでは?
では、「主流派経済学の前提がそもそも非現実的ではないか」という論点を除くと、飯田氏の議論に問題点は無いのでしょうか? そんなことはありません。「民間支出は市場取引の対象であるため、事前に価値が無いと思っているものに支出することはあり得ない」という飯田氏の前提は明らかに誤りです。
例えば、
ある民間企業の発注担当者が、生産用の機械を水増しした金額で発注し、水増し分の一部を、バックマージンとして自分の懐に入れた。
という、現実にありそうな事例を考えてみましょう。GDP統計上は水増し分も含めた発注全額が「民間総固定資本形成」に計上されますが、発注担当者が水増し分について「当該投資に金額に見合う価値が無いと事前に思っていた」ことは明らかでしょう(藤井氏が指摘②で挙げた事例は、「少なくとも物好きな金持ちは、穴を掘って埋める事業に対して、金額に見合った価値を見出している」点で今回の事例とは異なることに注意してください)。
もちろん、こんな犯罪まがいの事例を挙げることに違和感を覚える方もいるでしょう。でもそれを言うなら、飯田氏の事例B自体が「最初から無価値と知っていながら行った、犯罪ではなくとも少なくとも悪意に満ちた支出(業者からの何らかの見返りを期待していれば、犯罪となる可能性も高い)」です。そもそも景気対策をどのように行うべきか、という議論をする際に、(まともな当事者であれば選択肢として想定するはずもない)こうした事例を前提に含めて効率性を云々すること自体がナンセンスではないでしょうか。
結局、「政府支出には統計の泣き所がある⇒政府支出は平均的に、民間支出より非効率である」という飯田氏の論理展開は、議論の仕方として不適切だし、そもそも前提が誤っている、というのが私の結論です。
コメント
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民間の水増し投資の話は、設備投資のような中間財の場合はそこそこ起きえることであっても、最終財を無駄に買うというケースは少なく、GDPが最終財の売上(中間段階での付加価値の合計)であることを考えれば影響が小さいこと、また長期的には競争のある民間では利潤は限りなくゼロに近づく(製品の差別化による価格独占力の分しかなくなる)ため、無駄な水増し行動を行うような企業は赤字となり、退出している(全体に占めるウェイトは小さい)と期待できる、の二点でやはり政府部門とは異なります。
コメントありがとうございます。
まず、民間企業の設備投資も公共事業同様最終財ですので、そこは訂正させていただきます。
また、今回の論稿では、想定されておられるような枠組みの中で「民間・政府のどちらが効率的か?」という点についての問題に敢えて答えを出そうとしている訳でも、その枠組みにおいて飯田氏を批判している訳でもないことは、ご理解いただければと思います。
そもそも、主流派経済学が想定していない「内生的景気循環」というマクロレベルの不均衡を民間経済が生み出すという現実がある中では、「どちらが効率的か」という議論にあまり意味はないと思います。
むしろそうした現実を出発点として、「それぞれがどの社会的役割(事業)を担うのが適切か」を議論するべきでしょう。
そうした役割分担の観点からは、妙なひねりを加えず、必要とされる「従来型の公共事業」を粛々と行うことこそ、むしろ「まともな政府支出のあり方」と言えそうな気がしますが、いかがでしょうか。
飯田氏の言う「需要の過剰」は「供給力の不足」と同義です。「当初の価格の下における需要が、当初の価格の下における供給を上回る」という意味ですから。当然、その当初の価格では需給が一致しないので実際には価格が上がります。そして、飯田氏は土建業が技能産業化してしまったので短期的に供給力を増やせない、そのため通常は需要が供給を上回ったために価格が上がれば取引量が増える(この取引量が増えることが社会余剰を増やす=効率的になる)が、土建業の市場では供給が増えないために価格だけ上がって取引量が増えない、つまり効率的ではない、と主張しています。
実際、そこかしこで土建関連の価格上昇が言われているように、価格調整はかなり大幅に、広範に起きています。当初ある過大な需要は、供給力に合うところまで減少している可能性が高く、不均衡にあると考えるべき状況ではありません。価格変動と経済効率を混同するどころか、供給制約にある(供給曲線が垂直)時の価格調整と効率性についての非常に正しい考察をされています。
飯田氏は土建業が技能産業になったことが、公共事業で需要をつけても効率的にならない理由として挙げています。これは逆に言えば技能を獲得するだけの仕組みと、何より習得にかかる時間があった上でなら、効果があるということです。OJTが技能習得の中心になることを考えれば、企業が「一人前になるまで育てられるだけの期間、需要が続く」と思う必要があります。だからこそ、景気対策としての公共事業では、景気循環という数年の短いサイクルで政府からの需要が減ってしまうと企業が考えるため、失業者を新たに雇って技能習得を施し供給力を高めるという行動をとりません。労働者の側も、景気が回復に向かえば公共事業が減って首切りされるかもしれないような職業は嫌うでしょう。実際、昨年は公共事業の需要はそこそこ大きかったものの、建設業では人が減っています。そこで、飯田氏はもっと中長期的な、景気循環によって左右されることのない公共事業と、それを企業に信じてもらい新規に技能習得させる仕組み、そういったものが必要だと言っているわけです。それによって短期的には垂直(需要を増やしても取引量が増えず社会余剰が増えない)な供給曲線が、中長期的には右上がりになるのです。
コメントありがとうございます。
中長期的なコミットメントが必要、というご指摘はその通りですし、飯田氏が「リプライ」の中で、そういった趣旨の論述をしていることについては、今回の私の論稿でも言及しており、決して見落としている訳ではありません。
しかしながら、
①「財政政策はあくまで緊急避難的で、公共事業(あるいはそれも含めた財政支出総額)を拡大しつつけるのは非現実的」というのが飯田氏の基本スタンスである。
②この15年余りは、「財政支出総額抑制ありきの前提で、高齢化で社会保障支出が不可避な状況で帳尻を合わせるために、半ば機械的に公共投資を削り続けてきた」というのが現実の財政政策であり、その基本スタンスは未だに変わっていない(つまり、飯田氏の基本スタンスの下で中長期的なコミットメントを論じるのは、机上の空論でしかない)。
③米国大恐慌時のニューディール政策にしても、決して中長期的なコミットメントの下で行われていた訳ではない(均衡財政主義に囚われていたルーズベルトは、大統領2期目で一時緊縮財政に振れてしまい、「ルーズベルト恐慌」と呼ばれる事態を招いた)。レジームの転換点では「とにかくやってしまう」のも場合の手として必要。
④支出総額という観点で見れば、「消費税増税に対応した景気対策」とされつつも実態は前年度比緊縮予算であり、さらにその中に公共投資を含めないとなると、事実上「負のコミットメント」にすらなりかねない。需要が現状維持でも労働者の高齢化等によって供給力は減少していくのに、これでは致命的(傷口から出血が続いているのに医者が来るまで止血しない、と言っているようなもの?)。
⑤「中長期的な観点でしか人が反応しない」ことを前提に「供給曲線は垂直」と考えるのは、それこそ新古典派的な非現実的な想定。人はそこまで合理的ではない。現実には目先の変化に反応して技能を身に着けようとする動きは確実にあるはずで(しかも全てのプロジェクトで高度な技能の不足がボトルネックになっている訳でもないでしょう)、その結果は「中長期的な人的ストック」として蓄積され、④で述べた状況の改善に役立つ。しかも、事業の結果出来上がったインフラは、中長期的に役に立つ。
といった諸々の点を踏まえると、いただいたご指摘、あるいは飯田氏の議論は、やはりナイーブというか、きれい事でしかないように思います。
少なくとも15年以上の経済失政によって陥った現状から脱却するのはそうそう簡単な話ではなく、検討する際の前提を現実に即して真摯に見直し、地に足の着いた議論をすべきではないでしょうか。