制度を拒否する象徴としての「名前」 劇評:あやめ十八番『ゲイシャパラソル』

あやめ十八番『ゲイシャパラソル』 作・演出=堀越涼 2016年5月、サンモールスタジオ

あやめ十八番『ゲイシャパラソル』
作・演出=堀越涼
2016年5月、サンモールスタジオ

 そんな数奇な運命を背負った仇吉には、彼女を身請けしている衆議院議員・日色大輔がいる。そこに、仇吉に惚れた中国人資本家・羅義天が現れて三角関係が生じる。そして、仇吉は男たちの権力闘争に巻き込まれてゆく。羅が買った名前が仇吉を捨てた父親のものだったこと、そこから仇吉の出生の秘密が明らかになる。さらに、かつて柳屋に出入りしていた傘職人・国原大呉との淡い恋を仇吉は回想する。物を知らない少女の頃の仇吉に読み書きを教え、八月十五日 四月一日(あきなか つぼみ)という「本名」を付けてくれた大呉。現在は名前を売ってホームレスとなった大呉と仇吉が再会し、戸籍がない者同士が再び肩寄せあって幕。これら一切の物語を、かつて仇吉が飼っていた野良猫が語るという形式で描かれる。『吾輩は猫である』よろしく、野良猫は金と名誉と色欲で右往左往する人間の滑稽さを冷静に眺める。しかし、同じ野良として強く生きるしかなかった仇吉へ向ける目線は優しい。

 その優しさは、仇吉と大呉とのかつての日々が回想され、そして2人の縁が再度つながるラストに至る過程において顕著に表れている。大呉との関係から浮かび上がるのは、他の誰にも認められなくてもいいが、たった一人の大切な者に認められ肯定されることの喜びである。モノや人間の名前は、誰かから付けられた受身的なものでしかない。名前に理由や意味がないことも多い。そんな恣意性の高い記号がその実体と結びついて不可分なものになるのは、多くの第三者がその名前で繰り返し呼ぶからだ。そして人の名前であれば、呼ばれた者がそれを自身に内在化させることで、自らの存在と名前が不即不離の関係になる。そんな、個人を認識する名前の客観性を担保する最大のものが、戸籍という国が認めた制度なのだ。八月十五日 四月一日の名は戸籍登録されていないため、国の制度から言えば本名とは認められない。しかし、「花柳界の宝」と呼ばれる仇吉の名前も、深川界隈の多くの者がそう呼んでいるだけで、しょせんは芸名でしかない。しかもその名前は、父親に売られたことによって付けられた、数奇な人生の元凶である。その果てに今、仇吉は2人の男によって権力闘争の道具に使われ、互いの勝負の戦利品のように扱われている。(日色と羅の勝負は、他の登場人物が作った騎馬に乗った両者によって、お座敷遊びで行なわれる。この演出が効果的だった)

 八月十五日 四月一日も仇吉の名も、共に国の制度からはずれた「偽名」でしかない。名前が根本的に恣意的なものでしかないならば、自分らしく生きられる名前を選択した方が良いはずだ。深川芸者の世界で通じていた仇吉の名前ではなく、八月十五日 四月一日の名を選ぶことで、彼女はようやく自分の居場所を見つける。そのことは、彼女の人物像の変化にも現れている。仇吉としての彼女は客の男に騙されないように、計略に乗った振りをして彼らの裏をかく、芸者らしいしたたかな振る舞いを見せる。その様は、清廉で裏表のない態度で大呉に接する少女時代の彼女と正反対だ(この振り幅のある役柄を、大森茉利子はしっかりと演じ分けた)。いわば仇吉という名前で芸者を演じている自分は、実は本来の実体とは乖離した、送りたくない人生をなのだ。そうではなく、多くの者には通じない名だとしても、八月十五日 四月一日と呼び、存在そのものとしっかり関係付けて受け入れてくれる大呉と生きることに、彼女は幸福を見出す。どう生きるかという問題が、名前の選択という要素と絡めて描かれたことで、単なる個人の物語では終わらない説得力を生んでいた。

あやめ十八番『ゲイシャパラソル』 作・演出=堀越涼 2016年5月、サンモールスタジオ

あやめ十八番『ゲイシャパラソル』
作・演出=堀越涼
2016年5月、サンモールスタジオ

 戸籍や中国の問題は、それぞれが社会性を帯びた重いテーマを持っている。そういった要素が男女の恋愛に収斂してゆくことで、描かれる世界が狭くなっていると言えなくもない。しかしそのことを踏まえても、名前を媒介にして一人の女性の出自と過去を明らかにし、受身的な人生を主体的なものに転換するまでの過程は見事な筆致で描かれている。その巧みさに触れて、堀越はしっかりとした骨太の物語が書ける作家であると思わされた。

 大勢に認められるのではなく、ささやかでもたった一人との血肉の通った関係を重視すること。この本作のテーマの間口を広げると、消費社会や情報社会といった社会システムから逃れるということにもつながる。これら複雑なシステムの中で生きる我々は、仇吉のように他者に追い落とされないように生存競争を繰り広げている。それに伴って、生が細切れになるような思いをしているのではないか。名前という点で見ると、SNSをはじめとするネットを介したコミュニケーションでは、ニックネームを使用して自分を匿名化し、ウェブ上だけの自分を作り上げることが普通に行われている。これは、ネット上と実生活との人格を分けていることに他ならない。名前の恣意性と実体との乖離という事態は、今や日常的に行われているのだ。ただ、ネット状況と異なるのは、ネット上では不特定多数に偽装した自分をさらけ出して評価されることに関心が向き勝ちだが、本作に登場する仇吉は、生の確かさを求めてただ一人との濃密な関係を求めている点だ。SNSを介した広くて浅いコミュニケーションとは異なる凝縮した人間関係の重要性。その訴えは、生身の俳優が舞台上で、限られた観客に表現する演劇という芸術の特性にも合致しているため、観客に強く響く。だから「あんたのおなまえ何アンてエの」と問われた観客は、改めて自分の存在について思いを巡らせたのではないだろうか。(2016年5月30日ソワレ、サンモールスタジオ)

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西部邁

藤原 央登

藤原 央登劇評家

投稿者プロフィール

1983年大阪府生まれ。劇評家。演劇批評誌『シアターアーツ』などに、小劇場演劇の劇評を執筆。共編著『「轟音の残響」から――震災・原発と演劇』(晩成書房)

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