先日の『お金や異性以上の価値とは何か?』の記事の中で、
また、別の自己啓発の話を持ち出すと、脳機能学者を自称する苫米地英人氏は、『宗教の秘密』という本で面白い問題提起をしています。いわく、「現代社会というものは、伝統的な宗教の教えの価値がどんどん軽視され、薄れていく中で、お金が神に代わった。現代人のほとんどは、お金教の信者である」と説明し、さらに、このような「お金教」的な価値の洗脳から脱却しなければならないと述べています。
と書いたのですが、かの内村鑑三の『代表的日本人』という本を読んでいたら、これと非常に似た記述がなされているのを発見しました、なんだか奇遇だなーと思いましたが、非常に興味深い文章ですので紹介したいと思います。
誰それは「無宗教」の人であるという話はたびたび聞かれます。しかしそれは、その人たちが、特定の教義を奉じていいるわけではなく、導かれる教団もなく、神として、木や金属でできたりまたは心に浮かべた像を崇拝していない、というだけの話にすぎません。それにもかかわらず、その人々にも宗教はあるのです。その内部にある「不可思議なもの」は、ただ「拝金主義」とか「お酒神」とか、あるいはまた、ほかの自分流の催眠術や鎮静術によるものにせよ、あの手この手を用いて押しこめられているだけなのです。
うーむ、このような指摘を100年以上も前にしていたとは、さすがだなと思います。中野剛志さんや藤井聡さんは物語という言葉や概念を用いて説明していますが、結局のところ、どれだけ「自分はいかなる種類の思想、信条からも自由である」と抱くような人間も、本人がそれを意識していないだけで、必ず何かしらの思想、信条、あるいは物語というものに支配されているわけなのですね。そして、やはり問題なのは、高尚な、あるいは次元の高い思想、信条を抱けない、あるいは抱こうともしないような人間は、代わりに低俗で卑しい思想、信条、中野剛志さんの言葉を使えば物語、内村鑑三の言葉を使うなら信仰にとって代わられるということなのでしょう。
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