グローバル“競走”が全てではない — 箱根駅伝を通じて「国力」の意味を考える

日本は「デカい国」

 私はべつに、駅伝や野球が「すばらしい日本の文化だ」とか言いたいわけではありません。たかだかスポーツだし、そもそも野球だってアメリカから輸入されたものです。駅伝にしても、それなりの歴史はありますが、所詮はメディアが上手く国民的コンテンツに仕立て上げたものという面があるわけです。
 競技そのものの文化的価値はひとまずどうでも良くて、私が重要だと思うのは、ガラパゴス的なイベントの盛り上がりを通じて「日本はデカい国だ」ということが改めて実感されるということです。甲子園が観戦に耐える大会になるためには、ある程度レベルの高いチームが各都道府県に存在できるだけの裾野の広がりが必要です。また、観戦する側にしても、地域対抗戦を見て盛り上がるためには、帰属意識を強固に持ち続けるに値するような重みのある「地域性」が国内に存在していることが前提条件となります。そしてローカルなアイデンティティが強固であるということは、国内文化の幅や厚みを表しているのです。
 その意味で、海外で全く通用しないコンテンツで国民が盛り上がれるということは、日本が大国であることの証しであるわけですね。アメリカ人も、世界でどれだけサッカーが流行ろうと頑なにアメフトや野球などを観て盛り上がっているわけですが、あれもアメリカの「大国」としての側面の一つでしょう。
 「デカい国」であることをことさらに誇りに思う必要はないでしょうし、世界という「もっとデカいもの」を志向するのも悪いというつもりはありません。ただ、日本という国が、「わざわざグローバルな規模でモノを考えなくても、ドメスティックな文化だけで十分楽しめてしまうだけの、内的な豊かさを持った国」であることは理解しておいた方がいいのではないでしょうか。「閉鎖的」という言葉はふつう批判的な意味で使われますが、閉鎖していてもけっこう盛り上がれてしまうというのは、国内文化の多様性や豊かさの裏返しであると思います。
 現代は何かとグローバル化が賛美される時代で、グローバルに通用するものを生み出す力こそが「国力」の証しだと思われがちですが、グローバルには通用しないもので自分たちが楽しめるということもまた、一種の国力だと言うことができるわけです。文学を考えてみても、日本語というガラパゴス的言語の内部に、読み切れないぐらい多数の「名作」が存在するということは、日本語文化圏というものの強力な潜在能力を示しているはずです。

駅伝のグローバル性

 余談になりますが、駅伝は競技としてはガラパゴス的というほかないものの、その起源に着目すると、マラソンと同じぐらいグローバルでかつ歴史を持った文化だと言うこともできると思います。先ほど「競技そのものの文化的価値はひとまずどうでも良くて」と言いましたが、解釈次第ではけっこう面白いのです。
 最初に紹介した本山氏のブログ記事は、江戸時代の伝馬制度に言及していますが、駅伝の歴史はじつはもっと古い。駅という中継施設を多数設置し、その間に馬などで往復便を走らせるリレー方式のネットワークを構築することで、効率的に情報やモノを運ぶという仕組みを初めて大規模に実現したのは、古代ペルシア・アケメネス朝のダレイオス1世だと言われています。2500年ほど前の話ですね。
 これがエジプトのプトレマイオス朝やローマ帝国にも受け継がれていきますが(『ハプスブルク帝国の情報メディア革命 近代郵便制度の誕生』という本にまとめられています。)、こういったリレー方式のネットワークは、情報の迅速な収集と中央からの指示伝達を広大な地域に行き渡らせるためのインフラであり、帝国を統治するのに必須のシステムだったわけです(日本では、大化の改新後に律令国家を支えるインフラの一つとして、駅のネットワークが構築されました)。
 一方、「マラソン」の語源となった古代ギリシアにおける「マラトンの戦い」も同時代の話です。これは有名な話で誰でも知っていますが、アケメネス朝ペルシアがギリシアに攻め込んで返り討ちにあい、ギリシアのある兵士が伝令として1人で長距離を走り抜いて戦勝の報告を行ったわけですね。
 このように歴史を遡ってみると、「マラソン」と「駅伝」というものは、情報を届けるための対照的な2つの方法を象徴していることが分かります。マラソンは、1人でスタートからゴールまで手紙を持って走り抜ける方式であり、駅伝は、中継地点を挟んで連携しながら組織的に手紙を運ぶ方式です。マラソンは個人主義的かつ精神主義的な方式であり、駅伝は集団主義的かつ合理主義的な方式であると言うこともできるでしょう。人間社会には、一人で走り切る「根性」によって目的を達成しなければならない局面もあれば、連携の仕組みを構築することで組織的・合理的に目的を達しなければならない局面もあるので、どちらの競技からも学ぶべきことがあるはずです。
 メッセージ伝達の手段としては、駅伝方式のほうが効率的な場合は多いですが、マラソン方式も、秘密性の高い手紙を届ける「特使」のような形で長く活用されてきました。また、駅伝方式は、駅を多数設置して往復便のネットワークを組織するための統治能力が必要になりますから、簡単に作れるものではなく、人類の歴史全体を見渡せばマラソン方式のほうが歴史は長いだろうと思います。
 つまり整理すると、人類史が生み出したメッセージ伝達の二大方式のうち一方が「駅伝競走」という形でガラパゴス的に日本で発達したわけですが、このことは、

  1. 可能性としてはグローバルに通用しても良さそうなものを独自に育てることができた
  2. 国内だけでも十分に盛り上がることができてしまう

 という2つの意味で、日本の国力を象徴しているのです。
 まぁこれはたかだかスポーツの話ですからあまり真面目に考え過ぎても仕方ないのですが(笑)、駅伝を通じて、「国力」というものが持っている2つの側面を比喩的に理解することには意味があるでしょう。

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西部邁

川端祐一郎

川端祐一郎会社員

投稿者プロフィール

1981年生。筑波大学社会学類卒業。現在、京都大学大学院工学研究科博士後期課程に在籍。

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コメント

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  1. 2014年 1月 13日
    トラックバック:2014/01/09(Thu) | gattya.run

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