そのため、創造と開闢の“神”を原理的に想定することができる。
ただし、人間はそのような“神”を、原理的に持つことができない。
しかし、原理的に不可能なことを心的に持つことが人間には可能である。
それゆえ、そのような“神”は存在しうる。
しかし、そのような“神”を心的に持つことを拒否しうることも可能である。
そして、
恐るべきことに、
畏れるべきことに、
そのような態度は、
‘“神”’への信仰と呼ばれうるだろう。
そうして、無限は、無限に繰り返される。
これは、新しい神話であり、真なる神話である。
それゆえ、それはまた、偽なる神話でもありうるだろう。
それゆえ、それはまた、真偽の神話になりうるだろう。
真実と虚偽。
これは、真実と虚偽の物語。
真実と虚偽の間における神話。
一なる神の神話は、一なる神への信仰を生む。
そして、一なる神の神話は、やはり一なる神への不信心をも生む。
一なる神への信仰と不信心は、
世界における真実と虚偽を巡り、
我と汝を繋ぐ“愛”と呼ばれる。
そして、我と世界を繋ぐ‘“愛”’へと導かれる。
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