世界と国家と人生

垣領域

 心が世界において相交わることで、世界の観方において、心は自身の領域を持ちます。自身の領域を確定するために、外界と隔絶するために設けられるものを「垣」といいます。その垣によって区切られた領域を守るために、生物は己の命をかけることもあります。

私たちは、他に対する境目によって垣を定めます。垣は、様々な境界を考慮した上で、内と外を隔てる区切りとして立てられます。その垣は、心に「こちら側」と「あちら側」という境目の意識を生じさせます。なぜなら、我(もしくは我々)は垣に囲まれた内側である「こちら側」の境界に居るのであり、垣の外側である「あちら側」の境界には居ないということが意識できるからです。あちら側に居るのは他であり、その他に対するものとして、こちら側に自分(たち)が居るのです。こちら側とあちら側を分ける境目が、垣によって生じるのです。その垣による境界ごとに、異なる思想が想定され、人間はその境涯に生き、そして死ぬのです。

人間の生活の複雑さから、いくつもの「垣」が生じます。例えば、「家」・「村」・「里」・「都」・「国[國]」などです。

 漢字の成り立ちから見た場合、家は建物に、村は多数の人が集まり住む聚落に、里は耕作地に、都は城壁をめぐらせたところに、国は武装に関係しています。国家は邦家ともいい、国は軍事的、邦は宗教的な性格をもつ文字です。
 日本語では、家とは、自分や家族が生活を営み住んでいるところを意味し、先祖から代々伝えられてきたもの、また、それにまつわるものという意味を持ちます。村とは、地形・水系などによって人の居住に適し、人家が群がり生活圏を形成している区域・地域のことです。古代から国家機構の末端に組織され、行政・納税の単位とされてきました。里とは、人の住まない山間に対して、人家があつまって人が住んでいる所です。都とは、皇居のある地を意味しています。国とは、統治・人民・領土を合わせた一つのまとまりをいう語になります。故郷のことをいう場合もあります。太宰春臺(1680~1747)の『経済録』には、〈国ト云ハ、人ノ領スルニ由テ名ヅクル也〉とあります。

 これらの「垣」を築いて境界を確定するということは、心と世界が相互に働きかけ合うということです。それゆえ、選択肢における選択の基準、つまりは真善美と偽悪醜を形成する要因となります。単なる世界、単なる人生だけでは、意味のある基準は生み出されないのです。様々な境界の線引きを通して、意味と価値が生み出されるのです。
 この中でも「国家」は非常に重要です。国家は、統治・人民・領土という要素を持ちます。この三つのまとまりの線引きは、神意説、契約説、実力説など多岐にわたりますが、様々な境界(慣習・法律・不文律・道徳・文化・宗教・言語・民族)を統合した伝統によって築かれています。

国家

[図2] 様々な境界の統合としての国家

様々な境界を考慮し、国家の境界線が引かれ、国家の領域が形成されるのです。その伝統を通して国家を見た場合、統治は政府であり、人民は国民であり、領土は国土となります。歴史は国史となります。
国家とは、政府・国民・国土を合わせたものであり、国史の伝統を紡いで来た・紡いで居る・紡いで行くことなのです。

自分の帰属する国家を故郷だと思えるとき、自国は我々の居る場所だと想えます。そのとき国家は、世界と人生に対して大きな影響を及ぼします。

ここで、日本という特定の国家からの眺めを考えてみます。日本語では、国のありかたを「国柄」、地形を「国方」、住民を「国人」、その全体を支配する儀礼を「国見」と言います。国史は、「日本史」になります。そのため日本は、日本史による国柄により、国見・国人・国方という要素を合わせた国家だと言えるのです。

日本化

[図3] 国家の構造

あらゆる要素の統合として国家は成り立ちます。その性質上、国家は現に在るものでありながら、常に曖昧さが付きまといます。その曖昧さ故に、その国家の正当性が問われます。つまり、時代の変遷により、その国家は、なぜその境界線により、その国家なのかが常に問われ続けます。何故この国家は、この境界線が引かれているのか。何故あの境界線ではないのか。その問いは常に問われ続けます。その答えは、国家の内側(国民)および外側(外国人)から求められます。国家は、内側からの力と外側からの力の平衡状態として成り立ちます。国家における政府・国民・国土という各要素は、こちら側とあちら側という国家間を意識した国史の伝統の上において、現にそこに現れてくるものなのです。そこに作用する力は、精神的および物理的なものの両方です。つまり、国家の内側と外側に対して、権威および権力が必要になるのです。その正統性の答えに完全はありえませんが、答えの妥当性がある程度保たれていれば国家は続きますし、保てなくなると国家は崩壊したり、他国に併合されたりします。

→ 次ページ:「国家間」を読む

固定ページ:
1 2

3

4 5 6

西部邁

関連記事

コメント

    • 知行合一
    • 2013年 12月 14日

    大変興味深く読ませて頂きました。ブログも拝読させて頂きます。

    • ありがとうございます。
      ブログの方でもいろいろと論じていますので、興味がありましたら見ていってください。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

  1. 2015-4-24

    近代を超克する(1)「近代の超克」の問題意識を受け継ぐ

     思想というものを考えていく上で、現代においては西欧からの影響を無視することはほとんど不可能…

おすすめ記事

  1.  お正月早々みなさまをお騒がせしてまことに申し訳ありません。しかし昨年12月28日、日韓外相間で交わ…
  2. ※この記事は月刊WiLL 2016年1月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ 「鬼女…
  3.  現実にあるものを無いと言ったり、黒を白と言い張る人は世間から疎まれる存在です。しかし、その人に権力…
  4.  アメリカの覇権後退とともに、国際社会はいま多極化し、互いが互いを牽制し、あるいはにらみ合うやくざの…
  5. ※この記事は月刊WiLL 2015年6月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ 女性が…
WordPressテーマ「CORE (tcd027)」

WordPressテーマ「INNOVATE HACK (tcd025)」

LogoMarche

ButtonMarche

イケてるシゴト!?

TCDテーマ一覧

ページ上部へ戻る