正しい判断能力を養うには?
では、一体その判断能力はどのようにすれば養われるのでしょうか?一つ考えられるのは思想や哲学を勉強することです。良質な思想や哲学の中には、何が正しく、何が間違っているのかを判断するための価値判断を養うためのエッセンスが詰め込まれている事を考えれば、それは現代において必要とされる判断能力を養うための重要な手段と成りうるでしょう。
しかし、ここですぐさま一つの問題に突き当たります。それは何かというと、正確な判断能力を養うための思想や哲学の知識や理論もまた一つの情報であるとするなら、初めから正確な判断能力を有している者にしか、その思想や哲学の理論(という情報)が、正しい判断能力を養ってくれるのかどうかの判断ができないというパラドクスに突き当たるのです。
つまり、思想と哲学の理論により正しい判断能力を養いたいと願っても、正しい判断能力がなければ、その理論を学ぶことで正しい判断能力を養えるのか?という事を判断できないという理由でまさに無限後退に陥ってしまう。
ならば、正しい判断能力というものは、生まれつき正しい判断能力を備えた選ばれた人間にしか身につける事は出来ないのでしょうか。
まさか、そんな事があるわけはありません。しかし、先ほどのパラドクスをかえりみるならば、情報の価値を判断するためには情報によってそれを成すことは不可能であり、価値判断のための能力の源泉は単純な意味における情報を超えた何かに依存することになります。
ここで、日本の保守思想家の大家である西部邁先生の思想を参考にしてみましょう、西部先生は、情報を選別するための価値判断の能力やコモンセンス(常識 良識)の源泉は国民の歴史、文化、伝統の叡智の中にあるといいます。
では、果たして歴史、文化、伝統とは何か?西部先生の言葉を借りるなら、それは過去の様々な困難を乗り越えてきた死者たちとの交流であるといえます。
突然、価値判断の能力の源泉が歴史と伝統にあるといわれても、多くの人はピンとこないかもしれません(残念ながら、私自身もその意味を正確に捉えられているとは全く言えないのでありますが・・・)、これを私なりに解釈するなら、つまり、価値判断の源泉は人や社会との交流にあるといえるといえると思います、それは時間的な縦軸で捉えるなら歴史、文化、伝統の叡智、様々な困難を乗り越えてきた優れた先人たちとの対話と交流であり、空間的な横軸で捉えるなら、それはズバリ社会との交流であり、コミュニケーションなのです。しかし、残念ながらインターネットの出現はバーチャルなコミュニケーションを生み出す引き換えとして、現実世界のコミュニケーションの機会を奪ってきました。
濃密なコミュニケーションが失われつつある現代
ここにきて、インターネットの招き得る危機に再び戻ってきます。最初に説明したように、現代社会は情報技術の発達によりかつてのどの時代よりもはるかに多くの情報が氾濫し、それゆえに過去のどの時代よりも情報の価値、物事の真偽を見極める判断能力が必要とされる時代となりました。しかし、皮肉な事に、その情報技術の発達によりインターネットが発明され、そのインターネットの普及によって、バーチャルな情報伝達が発達することで現実世界の濃密なコミュニケーションの機会が奪われてしまいました。正確に数値化することは困難でありますが、心理学者の研究によると数値は様々ですが対人コミュニケーションにおいて言葉(言語)によるコミュニケーションの割合は3~35%であり残りの65~97%のコミュニケーションであるといわれているます。このような研究結果から考えれば、テキスト情報を主とするインターネット上のバーチャルなコミュニケーションの発達は、現実世界の濃密なコミュニケーションの代替となることは困難であると考えるのが妥当でしょう、現代人は価値判断の源泉となる社会との交流が希薄化し、濃密なコミュニケーションの機会が失われてしまっているのです。なので、あえて極端な表現をするならネットメディアの発達した現代に生きる私たちは、情報の判断能力が衰退し物事の真偽や、善悪が判断出来ない状態において、かつてないほど大量の情報の渦に巻き込まれているような状況なのです。
現在、ブログやツイッター、フェイスブックといったツールの開発によって、誰でも気軽に情報が発信できるようになったものの、中には小賢しい知識と呼んで差し支えないような情報や理屈を並べ立てて偉そうにしている人々が少なからず存在します、おそらく皆さんもそういう種類の人をネット上で見かけたことがあるのではないでしょうか?
おそらくは、このような種類の人々こそ、情報技術の発達による情報の氾濫と、判断能力の衰退という二つの現象が生み出した犠牲者の最も典型的な姿なのだと思います。
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