日本は寛容?不寛容? ―渋谷区「パートナーシップ条例」について考える
- 2015/3/18
- 文化, 生活, 社会
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日本は寛容? 不寛容?
日本はLGBTに寛容な国であった。
こう言うと、多くの(自称)保守派は反発します。しかし重要なのは、反発するのはなにも保守派に限らないということです。リベラル派もまた、「欧米と比べてLGBTの社会的権利の保護が遅れている日本が寛容な国であるはずがない! 現に今ようやく渋谷区が条例案を提出したばかりで、同性婚も認められていないじゃないか!」と反発します。
たしかに日本はLGBTの社会的権利の保護という点で、欧米諸国に遅れをとっています。
しかしそれは本当に、リベラル派が言うように「日本がLGBTに不寛容だから」なのでしょうか。
そうではない、むしろ寛容だからこそ権利保護が遅れたのだと主張しているのが、トランスジェンダーの社会・文化史研究家として知られる三橋順子さんです。
自らも女装者である“彼女”は、著書『女装と日本人』(講談社現代新書)の中でこう書いています。
欧米では、同性愛者や性転換者などの性的マイノリティの社会的権利を保護するシステムが日本に比べれば充実していることから、欧米の方がトランスジェンダーにやさしい社会であるかのような認識が日本では広まっています。しかし、それは社会の一面だけをとらえた認識であり、誤解なのです。
(中略)現代の欧米社会で、性的マイノリティの人権を擁護する運動が活発で、社会的権利を保護する法制度も進んでいるのは、性的マイノリティの存在を否定する基本的な宗教規範がある社会環境の中で、法的な保護無くしては生存権が守れないという危機感があったからなのです。(三橋 2008:338-339ページ)
日本で陰間茶屋がにぎわいを見せていたころ、キリスト教世界はLGBTを認めず、彼らの多くを処刑してきました。そのような過酷で不寛容な社会だったからこそ、欧米のLGBTは自らの生存のために、社会的権利を求めて戦ってきた―その絶え間ない努力がLGBTを保護する今日の社会的システムという形で結実したのです。
一方日本は、LGBTに寛容な、いうなれば「ぬるま湯」のような居心地の良い空間でした。だからこそ、皮肉にも社会的権利を求める運動が盛り上がらなかったのです。
誤解のないように言うと、私は「日本は寛容な国なのだからこのままでいいんだ」と言いたいわけでは決してありません。日本もまた、欧米諸国のようにLGBTの社会的権利を保護するシステムを充実させるべきです。私が言いたいのは「日本はLGBTに不寛容」だというリベラル派の認識は誤解だということです。
私は、日本は天皇という中性的なシンボル―これも極めて重要なテーマですが紙幅の都合上本稿ではこれ以上触れません―を頂く〈LGBTの帝国〉だと考えています。私はそんな〈LGBTの帝国〉の「臣民」の一人として、今回の渋谷区の条例案に諸手を挙げて賛同するものです。これを契機に、LGBTの社会的権利の保障が進むことを切に願います。
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コメント
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いずれ機会があったら話したいと思っていたけれど、よく考えもせず、こういうことを書いちゃダメですよ。
1そもそもこれは当事者にとってほんとうに必要なことなのか?LGBTのうち、同性愛はレズビアンと芸だけではないですか?それがなぜLGBTの権利という話になるのですか?
2わが国に同性愛差別がなかった、というわけではなく、それ以前の封建制という、この上ない「差別」情況があった。
パキスタンで女性首相が誕生したからといって、彼の国ではわが国よりも女性の社会進出が進んでいる、とか言えない。それとおなじこと。
3入居困難者は何も同性カップルだけではない。自助団体のHPなどに行けば容易く確認でkますが、独居老人や若夫婦も同じ。
4家族ではないから面会できない、という状況は、普通の内縁関係度も同じ。
6そもそも相続などに対処するために同性愛者は昔から養子縁組を使ってきた…例\カエサルとオクタヴィアヌス…わけだけれども、それでなぜ行けないのか?我が国の過去を持ち出すなら当然それも視野に入れなければならない、と思うけど?
以上、問題と思うところを書きました。良かったらアスリードに問い合わせて連絡をください。ゆっくり話をしましょう。
今の世の中、「自分はマイノリティなんですぅぅぅぅっ!」て言って被害者ぶれば何でもかんでも通っちゃいますね。
子供ができない同性カップルを制度上も結婚と同じように扱おうとか、果ては結婚を認めようとか、やっぱりおかしいと思います。
あと、日本の文化の話では、日本は子孫の繁栄を重んじてきた文化であり、その点からも今回の条例は相容れない制度だと思います。