メディアとわれわれの主体性

メディアは空気に引きずられるー「社会の木鐸」は理想論だ

 これを中途半端だとか、生ぬるいとか言うのは、ないものねだりにすぎません。なるほどメディアは、しばしば「社会の木鐸(ぼくたく)」と位置付けられます。

 木鐸とは昔の中国で、法令などを出すときに鳴らされた、木と鉄で作られた鈴のこと。「社会の木鐸」とはここから派生した表現で、「人々を目覚めさせて正しい方向に導く存在」を意味します。

 だがこの考えは、しょせん理想論でしかない。ほとんどの場合、メディアはそこまでの力を持っていません。各方面とのしがらみや利害関係もあるでしょうし、何よりも人々が作り出す時代の空気に影響され、引きずられてゆくのです。民主化・大衆化が進んだ社会では、とりわけそうなりやすい。

 ならば戦後日本のメディアが、戦後のあり方を肯定するのは、ちっとも不思議なことではないし、必ずしも批判されるべきこととすら言えない。メディアは「戦後日本の空気」とも呼ぶべきものに導かれているだけなのです。

 これでは「戦後メディア」などと、わざわざ規定するに当たりません。戦後日本においても、メディアはその本質に忠実であるという話です。だいたいメディアが「木鐸」であることにこだわり過ぎるのは、人々には教化・善導が必要だとみなす点で、「上から目線」の発想でしょう。

 日本社会のあり方が変わりさえすれば、「戦後メディア」のあり方もすぐさま変わるに違いない。映画監督の大島渚が、著書『体験的戦後映像論』(朝日選書、一九七五年)で記したエピソードは、関連して紹介に値します。

 大島監督は一九六八年、『大東亜戦争』というテレビ・ドキュメンタリーを制作しました。これは真珠湾攻撃から敗戦に至る過程について、説明的・論評的なコメントを付けることなく、記録フィルムと戦時中の新聞社説、そして大本営発表でたどってゆくもの。要するに当時の映像と言葉だけで、あの戦争を再現する趣向の作品です。

 番組には一九四三年六月、日比谷公園の斎場で行なわれた、山本五十六元帥の国葬も盛り込まれています。しかるにその様子を伝えるニュース映画には、「恐るべき神がかり的な名文のコメント」が付いていました。
 これをめぐって大島監督は、次のような感想を述べています。

 私はあのコメントを書いたのが誰であるかを知りたい。このニュースは日映の製作であるが、その日映が戦後は民主的ニュース映画製作の牙城となった。同じ人間が戦争中はまったく軍国主義的な、戦後は一転して民主主義的なコメントを書いていたのではなかったかどうか。
(一八ページ)

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西部邁

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