解雇しやすい特区と日本企業の強みについて
- 2013/10/5
- 経済
- 施光恒, 英語公用語化, 雇用
- 2 comments
雇用の規制緩和は、日本の伝統文化や慣習をも破壊
さらにいえば 安倍首相は勤労倫理が報われる社会と言っていますが、残業代ゼロで労働時間の制限も撤廃しいくらでもサービス残業を認めるような制度のもとで経営者の倫理は守られるでしょうか?人間は社会的な動物であり、おそらく、モラルなき経営者のもとで働く労働者が素晴らしい労働倫理を持つことは難しいでしょう。このような制度のもとでワーキングプアは増加し、いつ解雇されるかも分からないという不安を抱えながら安い賃金で擦り切れるまで働かされる労働者が生活、精神共に荒廃していくであろうことは明白です。
日本の伝統文化を慣習を大事にし、勤労倫理が報われる社会を目指す安倍首相ですが、やはり残念ながらこのような制度は日本の伝統文化も破壊するでしょう。日本は戦後終身雇用と年功序列というシステムを作り上げ一億総中流という言葉に象徴されるような豊かでボリュームのある中間層を抱える社会を実現してきました。企業は従業員を労働を行うロボットとして扱うのではなく、一人の人間として、その生活や家族の一生の面倒をみるようなカタチで雇用し、また従業員もそのような企業に忠誠を誓い、コツコツと働きながら長い時間をかけて技術や知識を身に付け企業に貢献しようと努力しました。
しかし、この特区の制度はこのような日本に根付いた企業文化あるいは企業と労働者との精神的紐帯を徹底的に破壊し、アメリカ型の雇用形態に近づけようとする試みであるように思えます。もちろん、いわゆる日本型の経営手法もすべてが先述したように上手く機能したとは限りませんし、終身雇用や年功序列にも弊害は存在したでしょう。また、アメリカ型の経営手法にも学べる点や取り入れるべき制度も存在するはずです。それでも日本は日本であり日本人はアメリカ人ではありません。確かにバブル崩壊後九〇年代には日本経済は低迷しアメリカ経済が復活した様子を見てアメリカ型の社会構造や経営スタイルを真似しようとした気持ちは分からなくはありません、しかし本来は、アメリカの成果主義や競争主義に対して日本の経営者は、日本的経営によって「どう成果主義と戦うか」を考えるべきだったのではないでしょうか? 少なくとも成果主義を日本的経営のように練り直して取り入れなければいけなかったでしょう。まして、現在のようにアメリカ型の社会やアメリカ型の経営手法が社会的な混乱を招いている様子を目の当たりしている状況で、ひたすらアメリカ型のスタイルを模倣していた事について反省してほしいものです。
九州大学准教授の施光恒先生は、ある討論の中で、日本の大学の英語重視の教育改革について触れ、日本の大学が英語を使って授業をすれば、アメリカ人は「これで我々は日本人に負けることはなくなった!!」と言って喜ぶでしょうと言ったことがあります。
おそらく、日本がアメリカ型の社会構造や経営手法を盲目的に取り入れた場合もそれとまったく同じことが言えるでしょう。そもそも、アメリカ型の社会構造や経営手法はアメリカ人独特の生活様式や精神風土から生まれたものです。それをまったく生活様式も精神風土も違う日本人がそのまま取り入れようとしたところでうまくいかないでしょう。そもそも論として性質的に受け入れがたいアメリカ型の成果主義、競争主義、市場主義を悪戦苦闘しながら必死にサル真似のように取り入れようとする日本人の様子を見てアメリカの政治家や大企業の経営者たちは「これで我々は日本人に負けることはなくなった!!」とほくそ笑むのではないでしょうか?
2
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
アベノミクス第三の矢とは、構造改革・規制緩和などなど特定の業者のレントシーカーを儲けさせるだけの代物だと愚考します。