「立憲主義」だけでは語れなくなっている憲法議論の変遷

立憲主義ってなんだ?

昨年の安保法制の関連法案では学生団体のSEALDsを中心として、安保法制に対する反対運動が盛り上がりました。この反対運動の中で中心的なキーワードとなったのが「民主主義」と「立憲主義」という2つのワードですが、今回は、この「立憲主義」というワードに注目しながら近代憲法に関する議論について考えてみたいと思います。

安倍首相は「立憲主義」と「民主主義」の破壊者?

SEALDsや野党を中心とした安保法制の反対派の主な反対の論拠は二つであり、一つは自民党の推し進めた安保法制は「民主主義」や「民意」を無視しているという点です、この点に関してそもそも自民党は選挙で国民の民意の上で政権与党の座を獲得しており、如何なる意味において明確に「安倍政権が国民の意思を民主主義の原則を無視して強引に安保法制を推し進めている」と判断したのか?その確たる論拠を示してほしかったところではあります。それから、もう一つは安倍政権が「立憲主義」の原則に反しているという批判です。

今回の安保法制では、安倍政権は強引な憲法解釈の変更により法的安定性を蔑ろにしたということは確かに言えるでしょう、またそのような批判に対して明確な反論や説明はなされていません。このような強引な憲法解釈によって安保法制を強引に推し進める姿勢を反対派の勢力から「立憲主義の原則を踏みにじっている」と批判されたわけです。前者の「安倍政権は如何なる意味において民主主義を軽視したと言えるのか?」という問題も重要ではあるのですが、今回は特に後者の立憲主義と憲法の問題について論じることとします。

憲法の意味が理解できない改憲派総理大臣の危機?

主に護憲派が立憲主義について言及する際には、「憲法は国家権力を制限するために存在するものであり、それが立憲主義の原則である」という説明が常になされています。2014年に野党議員から、「憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」と質問された際に、安倍首相は「考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う」と答えたことで、様々なメディアや評論家などから批判されました。

憲法と立憲主義の現代的意味付けについて

このような王権を制限する法としての憲法概念は、17世紀のフランスにおいて、権力が王権に集中するようになり、君主は法の拘束から解放されているとされ絶対君主制が確立し、ローマ教皇の権利からの対外的な独立性と同時に、国内における最高性を示すものとして君主主権の概念が登場するという歴史的な展開と、そのような絶対的権力に対抗するための近代の市民革命の流れの中で、絶対君主の有する主権を制限し、個人の権利・自由を保護しようとする思想・制度として誕生しました。もっと分かり易く言うと、17世紀のフランスで王権に集中し過ぎた権力をその後の市民革命の中で王権の絶対権力を制限しようとする動きが生じたということです。

しかし、現在の憲法の在り方を考えた際に、このような近代憲法における「国家権力を制限するための法」としての理解だけでは説明しきれないいくつかの事実が浮かび上がってきます。その一つが、社会権の規定です。

「権力からの自由」から「権力による自由」へ

先の説明でも述べましたように、近代民主主義の成立過程において、当初は「権力からの自由」つまり、専制君主が市民の自由や権利を侵害しないための専制権力に対する制限装置として憲法が生み出され、様々な協約が結ばれました。次に、時代が下ると「権力への自由」つまり、市民による政治参加の実現が問題となり、さらに20世紀へと時代が下ると次の段階では、国家が社会保障政策を通じて人々の福祉や社会権を保証する取り組みである「権力による自由」が問題となりました。

この「権力による自由」は国民の資産を一部取り上げて再分配することなどが必要となり、この段階においては明らかに憲法を、「国家権力を制限する装置」としての性質だけでは捉えられない存在であることが明らかになります。つまり、「権力からの自由」の段階では、とにかく、国家権力から財産権等の市民の基本的な権利を守ることが目的であったのですが、「権力による自由」の段階においては、明らかに一部「国家権力の積極的な介入」が求められることになります。

このように現在の憲法は、国家権力の介入を制限し、排除する装置であると同時に、他方では国家権力による再分配等の積極的な介入を要求するものでもあり、後者の側面を見逃すことは現在の憲法議論において片手落ちであると言わざるを得ません。

憲法は権力の源泉でもある。

次に、憲法とは、権力を制限するだけでなくその権力を保証し正当性を付与する装置であることについて説明します。
フランス革命期の法学者であるシエイエスは「憲法を制定する権力」と「憲法によって作られる権力」を区別しました。国民は憲法を制定するとことで授権すると同時に制限します。また、憲法は正当な権力の獲得プロセスを定めると同時に、不当な手段による権力の奪取を制限もします。

日本国憲法では、第四章「国会」において国会が唯一の立法機関であること、衆参両院でこれを構成すること、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する等を定めていますが、これは同時にこれら以外のプロセスによって獲得した権力を排除することを意味します。つまり、日本国憲法は、現在の左派を中心に議論されている「国家権力を制限する装置である」という面を備えると同時に、国家の積極的な介入を要求する側面を持ち、国家権力の正当性と正統性を付与する装置であり、また同時に、正当なプロセスを経ることなしに作られた権力の発生を排除する装置でもあるということです。

終わりに

憲法の役割とは、パッと思いつくいくつかの論点を提示するだけであっても、かように多様な側面を有しております。もちろん、「憲法とは国家権力を縛るものだ」という考え方が基本的な議論の土台であることは間違いありませんが、時代の変遷とともに、憲法の役割は拡大し多様化し複雑化しており「国家権力を縛るものだ」という単一の議論だけでは収まりきらない内容を有しています。

現在、日本国内における憲法議論は、「憲法9条を改正すべきか否か?!」「押し付け憲法である日本国憲法は正当性を持つのか否か?!」といった非常に単純化された論点でのみ語られることが多いのですが、出来ることならより憲法が曲がりなりにも国家の基本的なルールをカタチ作る最高法規である以上、様々な論点からバランスのとれた議論を行いたいものだと思います。

西部邁

高木克俊

高木克俊会社員

投稿者プロフィール

1987年生。神奈川県出身。家業である流通会社で会社員をしながら、ブログ「超個人的美学2~このブログは「超個人的美学と題するブログ」ではありません」を運営し、政治・経済について、積極的な発信を行っている。

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