産経新聞社からの回答書について論理的に考える

前回、「関岡英之氏と産経新聞の一連の対立について公論を擁護する」という記事を書きました。その後、関岡さんの第10回目の記事により、産経新聞社からの回答書が公開されました。そこに記載されている内容について、論理的に考えてみます。

【第6回 「移民問題トークライブ」に関わる産経新聞本社の不可解な対応をすべて暴露】
【第7回 フジサンケイグループ報道機関の情報操作を暴露する】
【第8回 愚かで危険な「外国人=被害者論」】
【第9回 安倍内閣の外国人労働者受入れ拡大策に断固反対する!】
【第10回 産経新聞社からの回答書】

回答書の問題点について

 書かれている内容について色々と言いたいところはあるのですが、あまり細かく述べても冗長になってしまうので重要な論点を絞ることにします。
 まず、この回答書は、産経新聞社の雑誌「正論」編集長から来ています。ですから、ここで示されている言論活動の基準は、産経新聞社および雑誌「正論」の公式見解と見なせます。関岡さんは回答書の行間や裏側を推測されていますが、私は「正論」編集長のことを知らないので、文面どおりに解釈するしかありません。そうすると、ここで使われている基準を、産経新聞や「正論」へも適用してもよいと見なせます。自分はその基準を用いて他者について論じているのですから、他者が自分にその基準を適用してきても、それに文句をつけるのはおかしいという当たり前の話です。
質問(3)では、〈記事を作成するうえで、何が重要な論点かを判断する基準はさまざま〉ということが述べられた上で、〈よりニュース性の高いこの観点を優先して盛り込むことも記事づくりの上では重要〉と回答がなされています。
 これ、ものすごい回答ですよ。確かに関岡さんの言う通り、〈こんなものを出してはいけない〉でしょう。しかし、編集長は〈このまま公開して構わない〉と言い張ったそうですから、私としては分かりやすくこの回答書が示している事実を述べるしかありません。

回答書が顕す産經新聞の異常な報道姿勢

 「正論」とは、正しい論ですから、その基準は正しいものであるべきです。〈何が重要な論点かを判断する基準はさまざま〉ではありますが、その基準の中から正しい基準を選ぶから正論と言えるわけです。「正論」編集長が最重要論点を選ぶ際の基準は、〈よりニュース性の高い〉ことになるのだそうです(呆然)。
 私はてっきり、道義的な意味での正しさか、もしくは理論的な正しさを追い求めているから「正論」と名乗っているのだと思っていました。しかし、それは間違っていたみたいです。〈よりニュース性の高い〉ことが正しさだったのです。よりニュース性が高いから「正論」だったのだそうです。すさまじいですね。

編集権による情報操作

前回の記事で、私は本件について以下の3つの問題点を指摘しました。

(Ⅰ)誠実な知識人の言論生命が危機に曝されているということ
(Ⅱ)移民国家賛成派を利する状況を生んでしまったということ
(Ⅲ)編集権によって主張の方向性が変えられてしまったということ

 ここで注目すべきは、やはり(Ⅲ)になります。本件では、編集権にてニュース性の高いものを選ぶことで、主張の方向性が変えられてしまったわけです。それにも関わらず、回答書には謝罪の言葉がないのです。
端的に言います。この回答書の内容から判断すると、「正論」編集長は、ニュース性の高いものを選ぶことで主張の方向性が変わってしまっても、謝る必要はないと考えているのです。これは大問題ですよ。この方法を認めてしまったら、どんなことでも悪用できてしまいます。賛成意見を反対意見にすることも、反対意見を賛成意見にしてしまうことも自由自在です。
 なぜなら、思想とは総合的であり統合的なものだからです。ですから、自己に不利益な供述を拒否する権利、すなわち黙秘権のある裁判とは違うものなのです。
思想においては、さまざまな状況を考えた上で判断を下す必要があります。世の中は複雑に絡み合っていますから、無理やりある立場の肩を持とうとすれば、それなりにできてしまうものなのです。
 例えば、世の中の1%が儲けて99%が損をするような場合を考えてみます。その状況を正しく述べた上で、99%側を擁護するのは適切な行為になります。一方、99%の不利益を隠し、1%の利益のみを述べて1%が儲ける政策を推進することは不誠実な態度になります。もちろん、99%の不利益だけを言い、1%の利益を隠して議論を展開することも褒められる行為ではないのです。もちろん、紙面には文字数の制限がありますから、掲載する文章は厳選せざるをえません。そのとき、意見の要旨を変えてしまうようなことは、してはいけないという当たり前の話です。
 まともな人は、問題のテーマについて双方の言い分を冷静に議論した上で、より合理的な意見に賛成します。ですから、その言い分の片方だけをニュース性が高いという理由で採用して報道すれば、合理的な意見ではなく非合理な意見を世の中に推し進めることができてしまうのです。マスメディアは、そのような恐るべき行為をいとも簡単になしえてしまえる存在なのです。ですから、マスメディアに対する警戒が必要になるのです。
 ちなみに、この回答書に示されている自分勝手なルールを、産経新聞や「正論」の記事に対して適用したらどうなるのでしょうか?

→ 次ページ「愚劣なのか卑劣なのか」を読む

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西部邁

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