集団的自衛権と憲法改正(その4)
- 2015/7/23
- 政治
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それでは、前回の考え方に従って、以下に「私の憲法草案」を提示します。多くの方のご意見、ご批判を仰ぎたいと思います。
なお前回、二つ言い忘れたことがあります。
ひとつは、先に憲法は何よりも簡潔を旨とすべしという意味のことを書きましたが、この提案には、ゴタゴタと長い前文、条文は、憶えにくく、青少年の教育に適していないという趣旨も含まれています。日本国民としての自覚を深めるために、この点はけっこう重要な意味を持っていると私は考えていますので、その意味からも簡潔が望ましいと思います。
もう一つは、参議院の、衆議院とは異なる意義についてです。現在の参議院は、「良識の府」としての意義をほとんど喪失していますので、それを何らかの形で復活させる必要があるでしょう。この点については、私は基本的に産経案に賛成で、その考え方を踏襲させていただきました。
現憲法では法律や予算の議決その他に関して衆議院の優越が認められていますが、ちがった側面で参議院の優越があってよく、これは今回の草案では、重要人事案件を先に参議院に提出するという形で生かされています(第四六条2項、第六八条3項)。
また参議院選挙には一部間接選挙を取りいれています(第三六条)。これは選挙人資格についての規定が必要となりますが、いろいろなアイデアが考えられるものの、それについて憲法の条文に盛り込むことはしませんでした。
【私の憲法草案】
前文
日本国は、第二次世界大戦の敗北による占領統治の期間を除いて、国家統一以来千数百年の間、自主独立を貫いてきた。その精神は、天皇を国民統合のよりどころとし、平和と秩序と伝統を重んじる国民の気風に基づいている。
私たち日本国民は、この気風を継承し、国際平和に貢献する意志を深く自覚するとともに、私たち自身が享受すべき福祉を保障するために、ここに新たに日本国憲法を制定する。
第一章 国体
第一条(国体) 日本国は、天皇を元首とする立憲君主国である。
第二条(政体) 日本国の政体は、日本国民の代表によって構成される。
2 日本国民の要件は、法律で定める。
第三条(国家主権および国家の責務) 国は、その主権と独立を守り、公の秩序を維持し、かつ国民の生命、財産、その他諸権利を保障しなければならない。
第二章 天皇
第四条(皇位の継承) 皇位は、皇室典範の定めるところにより皇統に属する子孫が継承する。
2 皇室典範の改正は、皇室会議の議を必要とする。
第五条(天皇の国事行為) 天皇は、法律の定める国事行為を行う。
第六条(天皇の任命権) 天皇は、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、衆参両議院の指名に基づいて両院議長を任命する。
3 天皇は、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命する。
第七条(摂政) 摂政を置く時は、摂政は天皇の名で国事行為を行う。
第八条(皇室の財産) 皇室財産の管理運営は、世襲財産を除き国会の議決を必要とする。
第三章 国民の権利および義務
第九条(国民の権利) 国民は、この憲法が保障する自由および権利を有する。
2 国民の自由および権利は、公の秩序のために制限されることがある。
3 公務員の権利は、職務にかかわる法律によって制限されることがある。
第一〇条(外国人の権利) 外国人の権利は、在留制度に基づいて保障される。
第一一条(法の下の平等) 国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分によって差別されない。
第一二条(思想および信教の自由) 国民は、思想および信教の自由を有する。
第一三条(政教分離) 国および地方自治体は、特定宗教を利する活動を行ってはならない。
第一四条(学問の自由) 国民は、学問の自由を有する。
第一五条(表現活動の自由) 国民は、言論、報道、出版、集会、結社の自由を有する。
第一六条(居住、移転、職業選択の自由) 国民は、居住、移転、職業選択の自由を有する。
第一七条(財産権) 国民は、物的および知的財産権を有する。
第一八条(私生活の権利) 国民は、私生活を侵害されない権利を有する。
第一九条(情報公開の義務) 国および地方自治体は、公共の利益に反しないかぎり、その保有する情報を公開する義務を負う。
第二〇条(生命および身体の自由) 国民は、法律の定める手続きによらなければ生命および身体の自由を奪われず、またその他の拘束を科せられない。
第二一条(裁判を受ける権利) 国民は、裁判所において公平な公開裁判を受ける権利を有する。
第二二条(拷問および残虐な刑罰の禁止) 国民は、公務員による拷問および残虐な刑罰を科せられない。
第二三条(一事不再理) 国民は、実行の時に適法であった行為またはすでに無罪とされた行為について、刑事上の責任を問われない。
第二四条(生存権) 国民は、健康で安定した生活を営む権利を有する。
第二五条(教育を受ける権利) 国民は、その能力に応じて教育を受ける権利を有する。
第二六条(勤労の権利) 国民は、勤労の権利を有する。
第二七条(参政権) 公務員の選挙は、成年者による普通選挙とする。
2 何人も、投票の秘密を侵してはならない。
第二八条(請願権) 国民は、国および地方自治体に対し、法律に基づいて請願する権利を有する。
第二九条(国民の義務) 国民は、この憲法および法令を遵守する義務を負う。
2 国民は、納税の義務を負う。
3 国民は、子女に教育を受けさせる義務を負う。
コメント
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少し遅くなりましたが、御説の驥尾に付して、愚考を申し述べたいと思います。
お考えの根本には全く異論がありません。憲法の性格などについて、多少違和感が持たれましたが、これは以前にも申し上げたようなことで、大したことではありません。
目下、磯崎補佐官の失言問題が大きな政治問題になっているようですが、これまた大したことではない。だいたい、「法的安定性」なんて言葉、今まで聞いたこともない、という人が大部分ではないですか?
それはまあ、法の、特に憲法の解釈が、コロコロ変わるのはよくないですから、失言は失言ですが。しかし、逆に、一度出た法律やその解釈は、未来永劫変えてはならない、などと言ったら、そのほうがずっとまずいですよね。
法も解釈も、時代に応じて変えるべきものです。その場合一番の問題になるのは、その変更の妥当性であることは言うまでもありません。しかしこれが、なかなか議論の焦点にならない。
それは何よりも、憲法九条に象徴される日本の平和主義が、一身の安全を願う(もちろんそれ自体は少しも批判されるべきことではありません)国民の、感情にのみ訴えてきたせいです。戦争なんて考えたくもない、可能な限り遠ざかっていたい、そうすればわが身は安全なんだ、というような。
この間知り合いの憲法学者が、「現憲法は安全保障の問題については何も言っていない。従って、安保法制は違憲になりようがない」と言ったのを聞いて、とても新鮮でした(彼はもちろん憲法学者の中の異端児で、今以上の出世が望めなくなるのは気の毒だな、と余計なことを考えてしまいました)。
「強いて今回の法案の根拠を憲法に求めるなら、第九十八条(条約及び確立された国際法規の遵守)だ」
とも。なるほど、小浜さんもご指摘のように、国連憲章でも、日米安保条約でも、それからサンフランシスコ講和条約でも、集団的自衛権は認められているんですな。
これに対して、安全保障の問題に関しては、憲法の前文で言及されているじゃないか、と言った人がいます。「(前略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というところですね。
これは、福田恆存が夙に指摘したように(「當用憲法論」)、「われらは国の安全保障なんて考えません」と、「積極的に」宣言したということですよね。
世界の諸国民が本当に公正で、信義を重んじるとしたら、自分の身の安全を守ることを考える必要なんかないわけですから。むしろ、考えたら、諸国民の公正と信義を信頼していないことになるので、失礼でもあれば、危険でもある、ということにすらなる。
こう言うと、悪い冗談のように見えますが、これは実際に、日本の平和主義を支える感情の内実だ、と言っていいようです。
これに対してさらに、先の人は、「『諸国民』は国家とは違う」とおっしゃいましたが。いやあ、どこの国の国民でも、国に命じられても、日本を攻めるなんて不公正なことはしない、その場合は必ず国に背いてくれる、と言うならですけど、それこそ悪い冗談でしょう?
安倍内閣は目下、このような理不尽(論理を尽くすことはむしろ拒否する)な感情を主な対手としているので、たいへんなんですが。それはまあ、現首相のお祖父さんの時も、さらにその前も、そうだったので。もうみんな、飽き飽きしませんかねえ。
私のような一庶民とは違い、政権政治家は、現実を動かさなくてはならないので、どうしても現実と妥協しなければならないところもある、とは理解できます。それにしても。
小浜さんがおっしゃるように、安保法案は、ネットを含めた各種報道で具体的に中身を知ることができますし、各種の解説も現になされています。それでも理解できない、という庶民を相手に、できるだけ噛み砕いて伝えようとすると、ちょっと「え?」というような感じになることがあります。
この間安倍首相自らがTVで言っていた、「今までは自分の家(日本のこと)が実際に燃えたら消火活動にとりかかることができるだけだったが、今後は火の粉が飛んできた時点で対処できるようになるんだ」というの。どういう比喩か、実際の法案にあてはめるのに、かえって大きな知力と労力がかかってしまいそうな。
それから、最初の頃言われていた、「韓国で戦争が起きた時、日本人がアメリカの船で避難しようとしたら、その船が攻撃された、その場合……」云々も、言いたいことはわかりますけど、その前に、話がやたらに細かいので、「本当にそんなことがあるの?」と思われてしまいませんか?
問題は、前述の「感情」から「論理的」に出てくる、最も基本的な「戦後レジーム」から、安倍内閣といえども脱却できないところにあるのです。即ち、
①日本自身はわが身の安全保障を考えることはできない。②その代わり、日本はアメリカに守ってもらう。③ただ守ってもらうわけにはいかないので、アメリカにできるだけ協力する。
こんな順番でしか考えることができない。本来は、
①自分の国は自分たちで守る。②しかし現在、単独防衛は極めて困難なので、アメリカの協力を仰ぐ。③ただ協力してもらうと言うわけにはいかないので、相手に対してこちらも応分の協力をする。
になるのが正常であるはずなのです。③の部分は結局同じだろうと思われるかも知れませんが、①の、主体の部分が違うということは、実際問題としてもたいへんな違いをもたらします。
もちろん、アメリカもタダで日本を「守ってきた」わけではありません。日米地位協定の枠をも超えたいわゆる「思いやり予算」だけでも、平成7年以降年に二千億円内外の金を日本は出しています。
しかし、「お金をあげるから、守ってね」というのはどうも……、と、アメリカ人はもちろん、日本人だって思えてきてしまいませんか? 第一これでは、戦争を否定していない。ただ、自分たちはやりたくない、と言っているだけだ。それはアメリカがやれ、と。「なんかズルい。人としてどうよ」とも。
第一、「日本を守る」主体がアメリカにあるのでは、その点に関しては日本はアメリカの言いなりになるしかないように感じられませんか? そのために憲法の枠が役立つ、と言われるのでしょうが、辛うじてその枠内に入りそうなことなら、断れないような。
現に、平成十五年のイラク特措法によって、我が国は、安保法制なんて待たずに、実質的にアメリカ軍の後方支援を行っているんです。このときのいわゆる第二次湾岸戦争には、周知のように、フランスやドイツは参戦を拒否しています。それは、各国にはそれぞれの事情があるに違いないので、一概に何が正しいかを言うつもりはありません。でも、どうですか?
日本って国は、
「今度の戦争に理があるとは思えない。従って協力はできない」
なんて、タテマエにもせよ、堂々と言えると思いますか? だって、どうせ、どんな戦争にも協力しないのが国是(これもタテマエですが)なのに。そんなエラソーなことを言うのは、柄に合わない、と、自ら思えてこないですか?
思想的には、これこそ一番乗り越えるべき戦後レジームではないでしょうか。
ただ前にも言ったように、現実には、いろんな妥協を経なければものごとが進まないのも本当でしょう。早い話が、憲法を変えようとしても、当分はできそうにない。ならば、姑息な弥縫策に見えないことはなくても、今度の安保法案も一つの試みとして、賛成せざるを得ない、と現在のところ私は考えています。
これによって、アメリカの都合だけで戦争に駆り出されるんじゃないか、という心配とは真逆に、少しでもかの国と対等にものが言える立場に、「心理的に」近づくためには、世界には戦争はあるんだという厳然たる事実からは目を背けないことが大事だと思いますから、その意味で。
それとは別に、市井の言説者としては、憲法改正を考える形で、根本的に「戦後」の総体を乗り越える思索を積み上げていきたいものです。この点でも、小浜さんの活動は貴重で、もとより微力ではありますが、共闘していきたいものだ、と考えます。
私の悪い癖で、また長広舌になってしまいました。最後に、お詫び申し上げます。
由紀草一さんへ。
意と理を尽くしたコメント、ありがとうございます。
言いたかったことを丁寧に代弁してくれているようで、あまりつけ加えることはないのですが。二言、三言蛇足を。
繰り返しになりますが、法案の国会審議は、どんなにおかしな憲法だろうと、その憲法の枠内でやらなくてはならないので、安倍内閣の苦しさ、涙ぐましさがにじみ出ていて、この暑いなかでまあ、愚劣な議論を相手によく辛抱するなあ、それが政治家たるものの欠くことのできない要件なんだなあ、俺にはとても出来んなあ、とヘンなところに感心しているわけです。
ですから、そもそも現憲法の建前の下では日本は自分の国を自分で守ることができない(つまり国を挙げて安全保障を放棄している)という状態が続く限り、いかなる政権も戦後レジームを脱却できないというのはおっしゃる通りなのですが、この自分のしっぽを飲み込んでいる蛇のような状態、世界で現に起きている、また起こることが想定される戦争に対して、国家として何も公式的な意見を言えない状態は、とにかく何とかしなければいけませんね。
その場合、一番厄介なのは、これもおっしゃる通り、国内世論の多数を占める法制化反対意見のうちに巣食っている「理不尽な感情」ですね。これは、60年安保の時にすごい勢いで盛り上がった(そして潮が引くように鎮まり、今ではあの改定に誰も反対しない)ことからもわかるように、いつの時代でも同じです。挑発的なニーチェの言葉を引用するなら、「賎民が論拠なくして信じたことを、どうして論拠をもって覆すことができよう。」
今度の場合は、左翼マスコミがいくらたきつけようと、国会前のデモ・集会はわずか400人だそうですから(このみすぼらしいさまを、中立性の装いのもとにさも大事であるかのように必ず時間を割いて報じるNHKの姿勢も問題ですが)、運動としてはほとんどないも同然。これがせめてもの救いと見るほかはなく、このたびの安保法制化にしても、自主憲法構想の議論にしても、あまり感情的反対論など気にせずに「粛々と」進めるほかはない、という月並みな結論に落ち着くでしょうか。
「憲法の性格」に関する私見(主として「国民主権」否定論と、いわゆる「立憲主義」的解釈への異論だと思いますが)についての貴兄の違和感に関しては、大事な論点だと思いますので、機会があれば議論を深めましょう。