本記事の内容については、私個人の責任に基づく見解であることを明記しておきます。
さて、「真正保守」思想を掲げている『表現者 2014年 09月号』に、藤井聡の『戦う以前にウソを見抜け』という論稿が掲載されています。題名に示されているように、ウソを見抜くことは確かに重要なことだと思われます。
藤井は、『男たちの大和』や『永遠の0』に否定的です。その否定の論理がものすごかったので、そこにウソがないか、ちょっと考えてみることにします。
兵士と武士は違います
藤井は『男たちの大和』や『永遠の0』を否定するために、山本常朝の『葉隠』を持ち出しています。
これらの物語の作家達は、山本常朝に酷評されぬものを作るという緊張感を持って、これらの物語を作りあげたのだろうか――?
残念ながら、私にはそのようにはどうしても思えない。
『男たちの大和』および『永遠の0』は、大東亜戦争の物語です。すなわち、日本の兵士たちの物語です。一方、『葉隠』は江戸時代中期に、肥前国佐賀鍋島藩で山本常朝の見解を
田代陣基が筆録した記録です。他の武士道書と比較すれば分かりますが、武士道の平均的な考え方というより、常朝の独自の考え方に基づいた理論が展開されています。
確かに、戦時中に『葉隠』が積極的に読まれていたという事実はありますが、兵士と武士は異なっているということには注意が必要です。武士道に基づいて行動していた兵士もいたでしょうが、それにしても『葉隠』の基準によって兵士のあり方を判断するというのは恣意的です。
要するに、自分に都合の良い判断基準を勝手にもってきて、それによって他者を否定するというのは、あまり褒められた行為ではないように思えるのです。
『葉隠』による批判の危険性
『葉隠』の内容は極論にも見えてしまうため、安易に他者批判に用いるのは危険です。そのことは、常朝その人が強く認識していました。そのため『葉隠』には、読んで覚えたら火の中へ入れろという断り書きがなされていました。他人が勝手に利用すれば、遺恨や悪事が出てきてしまうことを常朝は知っていたのです。
特に「死」については、
何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候。
と記されています。
つまり、『葉隠』の「死」の考え方を安易に持ち出して、他者を批判してはならないのです。『葉隠』の「死」の観念を受容する者は、ただ自身の人生を賭けてその内実を示すしかないのです。
『葉隠』の意図するところ
藤井は、次のような批判を行っています。
例えば『男たちの大和』で、まさに大和が特攻をかける直前、兵士達が自分達の特攻死は犬死にではないかと上官を問い詰めた際、その上官からの答えとして、ある俳優は、「この戦いは、新しい日本を作るためだ」と言い放っている。
しかしこれはあからさまに山本常朝が『葉隠』にて徹底的に批判した態度そのものではないか。山本常朝は、犬死か否かを問うことそれ自身を下らない戯れ言と批判したのである。
ここで注意すべきは、「犬死か否かを問うことそれ自身を下らない戯れ言」というのは、本当に『葉隠』の思想なのかという点です。藤井は、『葉隠』の思想を曲解している可能性があるのです。
『葉隠』には、「武士道と云は、死ぬ事と見付たり」という有名な文章の前に、次の四誓願が示されています。
一、武道に於いておくれ取り申すまじき事
一、主君の御用に立つべき事
一、親に孝行仕るべき事
一、大慈悲をおこし、人の為に成るべく候事
これらの誓願は健全なものですから、「死ぬ事」もこれらに適う必要があります。ですから、死の意味を問うことは必要になります。
そもそも常朝自身は、主君光茂への追腹(家臣が主君の死後に後を追う風習)をしたかったのですが、禁止令のために出来ず出家しています。そのため常朝は生き残り、『葉隠』が日本思想史上に残されることになったのです。単純に「犬死か否かを問うことそれ自身を下らない戯れ言」だというのなら、常朝は禁止令の有無に関わらずに追腹で死んでいなければならなかったはずです。
では、実際には、常朝は「犬死」についてどのように考えていたのでしょうか?
図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打上たる武道なるべし。二つふたつの場にて、図に当るやうにする事は及ばざる事也。我人(われひと)、生る方がすき也。多分すきの方に理が付くべし。
不慮の事態で生死の選択を迫られたとき、立派な振舞い方から外れた犬死なのか否かを考えることは、上方風の武道だというのです。上方風とは、田舎風に対する言葉であり、江戸や大坂のことを指しています。
ちなみに常朝は、
其時代々々にて能(よき)様にするが肝要也。
とも述べていますから、時代や場所による相違を考慮していたことが分かります。そういった条件を前提とした上でも、突発的な事態に立派に振舞うことには限界があります。思慮分別を働かせると人間の生命に対する執着が入り込み、生き恥をさらしてしまうことを常朝は警戒しているのです。
江戸や大坂では武道において犬死を気にしたとしても、佐賀鍋島藩では犬死を気にして生き恥をさらすことは致命的だったということです。おめおめと生き残れば、腰抜けと言われる上に、切腹か処刑が待っています。死を選べば恥にはなりませんし、家族にも迷惑がかからないわけです。
つまり『葉隠』では、佐賀鍋島藩という社会環境を考慮した上で、瞬間的な判断が必要な場合に、死ぬべきなのに生き延びる理屈を考え出し、生き恥をさらすことを批判しているのです。そうだとするなら、この『男たちの大和』の事例を『葉隠』によって否定することはおかしな話になります。時代状況の差異を考慮していませんし、問題の状況が瞬間的な判断が必要な事態だとは言い難いですし、彼らは特攻を決行し見事に死んでいったわけですから。
藤井の批判が的外れであることは、『葉隠』の次の文章からも分かります。
一、忠節の事。一番乗・一番鎗幾たびよりも、主君の御心入を直し、御国家を固め申すが、大忠節也。一番乗・一番鎗抔は、命を捨て懸る迄也。其場ばかりの仕事也。
一番乗や一番鎗(槍)とは、戦場で最初に敵陣に突っ込む人や、最初に手柄を立てた人を意味する言葉です。まさに、犬死を怖れずに死へと邁進する姿勢であり、武士階級において誉れとなります。
しかし、『葉隠』ではそれ以上に、主君へ諫言(目上の人の過失などを指摘して忠告すること)し、国家をしっかりと安定させることが重視されているのです。常朝は鬼才ですから、状況というものをしっかりと考慮しているのです。ある状況には、その状況に合った対応をする必要があるという当たり前の話です。ですから、ある状況の極論を持ってきて、他の状況を批判して悦にひたるようなことがあってはならないのです。
藤井聡は、山本常朝に酷評されぬものを作るという緊張感を持って、『戦う以前にウソを見抜け』という論稿を作りあげたのだろうか――?
残念ながら、私にはそのようにはどうしても思えない。
コメント
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今回の内容ですが、公と私の区別がついていないように見受けられました。
言葉を変えると個人というミクロの視点により過ぎていて、国というマクロからの視点が欠けている印象です。
個人として家族を大事にする視点や、特攻の前に命を惜しむはたから見たら臆病ととらえられる人もいたでしょう。
ですが、それを必要以上に正当化することは公(おおやけ)を疎かにすることにつながります。
もし個人の家族と国全体の利益を天秤にかけたとして、同じ重さもしくは個人の家族を重く見るのであれば、やはり戦後教育に毒されていると思いませんか。
トージさん、コメントありがとうございます。
> 言葉を変えると個人というミクロの視点により過ぎていて、
> 国というマクロからの視点が欠けている印象です。
私は、常朝が「国家をしっかりと安定させること」を重視していたという視点から、
藤井の『葉隠』理解が間違っていることを指摘しているわけですけど。
さらに、『永遠の0』には「国家と家族をめぐる問題」があることも指摘しているわけですけど。
もしかして、「国というマクロからの視点が欠けている」というのは、
私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
> 個人として家族を大事にする視点や、
> 特攻の前に命を惜しむはたから見たら臆病ととらえられる人もいたでしょう。
そうですね。『永遠の0』では、長谷川梅男という登場人物がそのような意見を述べています。
私は、彼の意見にも理があると思っていますので、
わざわざ記事中で彼の言葉を引用しているわけですが。
批判するにしても、
『永遠の0』を読んでからにしてほしいものです。
読んでいて、このような意見を言っているなら、
恥ずかしいので読解力を鍛えた方がよいですよ。
> ですが、それを必要以上に正当化することは公(おおやけ)を疎かにすることにつながります。
私の記事のどこが、必要以上に正当化しているのでしょうか?
私は公を考慮しているつもりですし、
公の観点から藤井に異議を唱えています。
『永遠の0』について、
「主人公である宮部久蔵が最期には特攻を選んだことがこの作品の妙味」だとも
きちんと言っています。
もう一度言います。
私の記事のどの部分が、必要以上な正当化に該当するのですか?
> もし個人の家族と国全体の利益を天秤にかけたとして、
> 同じ重さもしくは個人の家族を重く見るのであれば、
私は、そのようなことは全く言っていませんが。
私が言っていないことを、ねつ造して非難する行為は、
卑劣だと断ぜざるをえませんね。
> やはり戦後教育に毒されていると思いませんか。
私は、山本常朝や本居宣長の見解に同意して議論を展開しています。
もしかして、「戦後教育に毒されている」というのは、
私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
>私は、常朝が「国家をしっかりと安定させること」を重視していたという視点から、
>藤井の『葉隠』理解が間違っていることを指摘しているわけですけど。
>さらに、『永遠の0』には「国家と家族をめぐる問題」があることも指摘しているわけですけど。
>もしかして、「国というマクロからの視点が欠けている」というのは、
>私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
いいえ。木下さんの文章から受けた印象です。
欠けているというより公と私の分類が私と木下さんとで違うというほうが正しいかもしれません。
> 個人として家族を大事にする視点や、
> 特攻の前に命を惜しむこと(訂正)をはたから見たら臆病ととらえられる人もいたでしょう。
>そうですね。『永遠の0』では、長谷川梅男という登場人物がそのような意見を述べています。
>私は、彼の意見にも理があると思っていますので、
>わざわざ記事中で彼の言葉を引用しているわけですが。
>批判するにしても、
>『永遠の0』を読んでからにしてほしいものです。
>読んでいて、このような意見を言っているなら、
>恥ずかしいので読解力を鍛えた方がよいですよ。
>>ですが、それを必要以上に正当化することは公(おおやけ)を疎かにすることにつながります。
個人の自由を認めれば、公が制限されるという一般論だとご理解ください。
>私の記事のどこが、必要以上に正当化しているのでしょうか?
>私は公を考慮しているつもりですし、
>公の観点から藤井に異議を唱えています。
>『永遠の0』について、
>「主人公である宮部久蔵が最期には特攻を選んだことがこの作品の妙味」だとも
>きちんと言っています。
>もう一度言います。
>私の記事のどの部分が、必要以上な正当化に該当するのですか?
上の通り個人の自由を認めれば、公が制限されるという一般論だとご理解ください。
>> もし個人の家族と国全体の利益を天秤にかけたとして、
>> 同じ重さもしくは個人の家族を重く見るのであれば、
>私は、そのようなことは全く言っていませんが。
>私が言っていないことを、ねつ造して非難する行為は、
>卑劣だと断ぜざるをえませんね。
公と私の分類を例示しただけで、それ以上の意味はありません。
>> やはり戦後教育に毒されていると思いませんか。
>私は、山本常朝や本居宣長の見解に同意して議論を展開しています。
>もしかして、「戦後教育に毒されている」というのは、
>私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
どうもこちらの言葉遣いが良くなかったようですね。すみません。
「私的に見えたものが公的なものに基づいていたことに気づく」
これが良く分かりません。もう少し詳しく解説していただけないでしょうか?
> 欠けているというより公と私の分類が私と木下さんとで違うというほうが正しいかもしれません。
そうですね。公私の定義がまったく異なっているようです。
私の公私についての考え方については、『世界と国家と人生』を参照ください。
http://asread.info/archives/241
参照していただければ分かりますが、
私の定義は『十七条憲法』・貝原益軒・荻生徂徠・上杉治憲・福沢諭吉などの
考え方に基づいています。
> 個人の自由を認めれば、公が制限されるという一般論だとご理解ください。
トージさんの定義に基づけば、
「個人の自由を認めれば、公が制限される」ことが公私の一般論として成り立つわけです。
私の定義では、それは一般論として成り立ちません。
なぜなら、個人の自由(為すことを許された範囲)を認めることが公に適うこともあれば、
個人の自由を認めることが公を制限することもあるからです。
抽象的にも区別が必要ですし、状況によっても区別が必要です。
当たり前の話ですね。
> 「私的に見えたものが公的なものに基づいていたことに気づく」
> これが良く分かりません。もう少し詳しく解説していただけないでしょうか?
例えば、小説の二章のあたりでは、
宮部は命を大事にしていたが命令でいやいや特攻に行かされたと指摘されているわけです。
これは、どうみても私的な理由です。
しかし、物語が進むにつれて、特攻の理由に公の心があることが見えてくるということです。
小説版で分からない場合は、漫画版と映画を見るべきです。
その理由について、少し踏み込んで描かれているからです。
小説版・漫画版・映画をすべて見て、それでも分からない人とは、
残念ながらわかり合えることはないでしょう。
藤井さんの発言について「国家の命運のために死んで見せること」を公的な理想として掲げることは必要で大切なことであると思います。
しかし、この理想の前提には「そうして戦うことで妻子を守る・妻子への愛情を果たすこと」というものがある筈です。
その前提を無視して理想のみを語っては片手落ちというか、その理想さえも、かえって上手く成り立たないのだと思います。
でういさん、コメントありがとうございます。
> 藤井さんの発言について「国家の命運のために死んで見せること」を
> 公的な理想として掲げることは必要で大切なことであると思います。
公的な理想として、国家の命運のために死んで見せることを掲げることが、
必要であり大切なことであるとの指摘、もっともだと思います。
> しかし、この理想の前提には「そうして戦うことで妻子を守る・妻子への愛情を果たすこと」
> というものがある筈です。
まったくその通りだと思います。
> その前提を無視して理想のみを語っては片手落ちというか、
> その理想さえも、かえって上手く成り立たないのだと思います。
私もそう思います。
素晴らしいコメントありがとうございます。
お示しいただいた記事読ませていただきました。
やはり木下さんの意見は個人から見た公(または世界)側によっているように思います。
特攻が個人にとって私から公になっていくこと。個人が家族のために戦うことが、公に繋がることというのも大事なことですが、それ以上に、国民の集団、軍などの集団の公の正しさというものが大事だと考えます。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈公なる者は私の反なり。衆の同じく共にする所、これを公と謂ふ。己の独り専らにする所、これを私と謂ふ〉
この衆の同じく共にするところのことですね。
そして個人が公のために特攻することだけを美談として語ることで、軍としての特攻の公の正しさが問われないのは、特攻を語る上で不十分だと存じます。
また特攻隊1人1人という単位には、他の日本国民全員の集団である日本国の公を語る単位として小さすぎることに注意が必要です。
木下さんは日本国としての公は語っていないですが、小説として特攻隊を語り、公のためだというのであれば、全体の公を語らないことには大きな弊害があります。
また特攻には、本人は名誉など、綺麗に亡くなれますが、残された者に対する責任の放棄という側面があります。自分の命に対する責任もあります。
繰り返しますが、個々の特攻隊の犠牲は尊いものです。
ですが、語る以上はそれ相応の覚悟は必要だと存じます。
トージさんのコメントに対する回答は、これで最後にします。
彼の今までの言説から、最低限の知的誠実性がないと判断したためです。
彼の公私の定義は、
「個人の自由を認めれば、公が制限される」ことが一般論として成り立つものであり、
私の定義(過去の日本人の意見を参照したもの)とは異なっています。
彼は、彼の勝手な定義によって私を批判しているため、議論が成り立ちません。
また、彼の言説は建設的な議論を目指したものではなく、
私にイチャモンをつけることが目的化しているとしか思えません。
私の記事は、藤井の論稿で納得いかない箇所を批判したものです。
それに対し、以下のように何々を語っていないという非難をしているわけです。
> 軍としての特攻の公の正しさが問われないのは、
> 特攻を語る上で不十分だと存じます。
> 全体の公を語らないことには大きな弊害があります。
私が公を否定しているという非難なら議論になるでしょう。
私がテーマに挙げていて、それなのに論じていないという指摘も議論になるでしょう。
しかし、記事の論旨から外れた大枠で抽象的なテーマを持ち出して、
お前はそれを語っていないと言い出すってのは、実に恥ずかしいですね。
その手口が有効なら、相手をいくらでも非難できてしまいますからね。
まともな議論などするつもりがなく、ただただ私を貶めたいだけなのが良く分かりますね。
> また特攻には、本人は名誉など、綺麗に亡くなれますが、
> 残された者に対する責任の放棄という側面があります。
> 自分の命に対する責任もあります。
> 繰り返しますが、個々の特攻隊の犠牲は尊いものです。
> ですが、語る以上はそれ相応の覚悟は必要だと存じます。
もはや、トージさんはご自分が何を言っているのか分からなくなっているのかもしれません。
「残された者に対する責任」や「自分の命に対する責任」は、
『永遠の0』でしっかりと描かれていたものであり、私はそれも含めて擁護しているわけです。
最低限の知的誠実性がない人との議論は、不毛なものだと再確認させていただきました。
本日(9月9日)の『三橋貴明の「新」日本経済新聞』に、
『【藤井聡】永遠に「ゼロ」?』が掲載されています。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/09/09/fujii-107/
一読をお勧めします。
私は、あまりの内容に脱力してしまいましたが・・・。
9日の藤井さんの記事を読んでみましたが
葉隠についての記述が一切なかったのでもやもやしました。
>自分に都合の良い判断基準を勝手にもってきて、それによって他者を否定する
(本論1ページ目より)
という良くないことを『戦う以前にウソを見抜け』において行っただけに留まらず
そもそも、単に当人による映画への批判の口実として葉隠れを利用しただけではないか
という疑惑すらわいてきます。
つまり結論ありきで、批判のために都合よく利用できれば何でも良かったのではないかと。
本や映画などから受けとる印象や感想はは当然人それぞれ違うものではありますし
それをどう表現しようが基本的には自由ではありますが
もし上記の疑惑のとおりであるなら
せめて初めから自分自身の言葉で批判を行うべきであったと思います
でういさん。今度も素晴らしいコメントありがとうございます。
> つまり結論ありきで、批判のために都合よく利用できれば何でも良かったのではないかと。
私もそうだと思います。
> せめて初めから自分自身の言葉で批判を行うべきであったと思います
まったくその通りだと思います。
『永遠に「ゼロ」?』への反論も執筆予定です。
今回の記事の件では、
きちんとした反論などは皆無で誹謗中傷ばかりという状況です。
私に来る分にはまだしも、ASREAD編集部への誹謗中傷も多く、
まことに申し訳なく思っております。
そんな中、無名のサラリーマンVS京都大学教授という権威格差がありながら、
でういさんのように書かれている内容に基づいて意見をくださる方には、
心から感謝いたします。
誹謗中傷だらけで疲れている私にとっては、
砂漠で見つけたオアシスのように感じられます。
素晴らしい意見をありがとうございました。
こんにちは。一つ質問がございます。
>特に「死」については、
>何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候。
>と記されています。
>つまり、『葉隠』の「死」の考え方を安易に持ち出して、他者を批判してはならないのです。『葉隠』の>「死」の観念を受容する者は、ただ自身の人生を賭けてその内実を示すしかないのです。
このよう書かれますと、木下様ご自身が葉隠における「死」の考え方を持ち出して、藤井氏を批判するというロジックになってしまっているように思われ、少し矛盾があるように感じてしまうのですが、その点につき木下様のご見解をお聞かせ頂けると幸いです。
矛盾でしょうか?
うま様のおっしゃってるのは、「死狂ひ」という考えそのものと、「何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚
悟仕(つかまつり)たる迄にて候。」という考えをごっちゃにした言葉遊びに見えます。
うまさん、shoさん、コメントありがとうございます。
shoさんが見事に答えてくれていますが、矛盾にはなっていません。
簡単に言っておくと、
自分が実践していくタイプの思想と、
他人に強制していくようなタイプの思想は違うということです。
そのタイプの違いをごっちゃにしたり、誤用したりしてはいけないということです。
この作品は、左翼的思想の上に葉隠の精神を利用していると、私は、感じたのですが。
木下氏に質問します。
藤井氏も問題定義していますが、部下が上官に対して「この特攻は、犬死にではないか」と忠告しました。
これは木下氏の言うとうり、葉隠の精神です。
しかし上官は「新しい日本をつくるためだ」と…………
葉隠の精神は、武士(兵士)のありかたを解いていますが、ここで一番大事なのが、主君(上官)のありかただと考えます。この上官のありかた、つまり、私たち(作者)一人一人の思想、考え方が問われるのではないかと。
木下氏は、部下に同じ様な事を忠告されたら、どの様な言葉を発しますか。
文太さん、コメントありがとうございます。
> 木下氏は、部下に同じ様な事を忠告されたら、どの様な言葉を発しますか。
まず、軽々しく答えるような質問ではないと考えます。
それでも、あえて方向性を述べるなら、
本記事で示した『永遠の0』景浦の台詞が一つのヒントになるかと思います。
そのヒントをベースにしつつ、私なら3つの論点を挙げて回答します。
せっぱ詰まった場面で、そんなに話せるのかという突っ込みはおいておいて(笑)
これ以上に具体的な回答は、
相手側の議論水準が必要になります。
そのため、失礼ですが文太さんのコメントの内容で分からなかった点を質問し、
その回答によって判断させていただきます。
ここを見ている人が分かるように書いてください。
> この作品は、左翼的思想の上に葉隠の精神を利用していると、私は、感じたのですが。
【質問1】
「この作品」とは、私の記事でしょうか?
それとも、藤井の原稿のことでしょうか?
【質問2】
「左翼的思想」とは、どの部分の文章であり、
それを左翼的だと判断した根拠を示してください。
多くのコメントありがとうございます。
本記事の執筆者である木下です。
コメントはありがたいのですが、
最低限の知的誠実性がない人との議論は不毛なものになってしまいますし、
私としても時間には限りがあります。
そのため、今後は私の判断で、
返信するコメントを厳選させていただきます。
以上、よろしくお願いいたします。
この作品とは、男たちの大和、永遠の0のことです。
左翼的思考というよりも、現代的思考と言った方が、正しいかもしれませんので、まず訂正させていただきます。
(左翼の定義も議論の対象になるのでやめときます。)
まず木下氏が、私の質問に対して「軽々しくこたえるような質問ではない」と言う言葉に敬意を表します。
私も同感であり、私自身もこの答えに、悩んでいるところです。
しかしながら、木下氏に答えがあるのなら、まず私の質問に答えて頂きたい。
木下氏の答えが作品のストーリーに乗っとた、答えなのか。
それとも自己の思想に乗っとた答えなのか。
この答えで木下氏の議論水準が解りますので。
考えてもわからないところがありました。
できれば教えていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
質問
2ページ目の記述に、
3 藤井:日本のために死んだ戦前の経験から、死を回避して逃げる戦後も正しい。
とありますが、
木下さんは、「藤井さんの考えは
日本のために死んだ戦前の経験から、死を回避して逃げる戦後も正しい」
ではないかと判断したということでしょうか。
1 左翼、2 児玉、3 藤井と並べたのは何についてなのか補足がほしいです。
回答して下さると有難いです。