とんでもツジツマ
藤井はどうしても『男たちの大和』を否定したいのか、ある俳優の「この戦いは、新しい日本を作るためだ」という台詞からとんでもない理論を展開しだしています。
さらに言うなら、この俳優の台詞は、『葉隠』の精神からすれば、否定せざるを得ぬおぞましき国家に成り下がったこの戦後日本を、あろうことか「肯定」してしまうものともなっている。なぜなら、命を捨てて作りあげた戦後日本そのものが唾棄すべき最悪な国家であったなら、それこそ、戦士達の死は犬死に他ならなくなる、だから、戦士達の死が犬死ではないと強弁するためには、彼等が作りあげた未来の日本=戦後日本は素晴らしいと考えなければいわゆる「ツジツマ」が合わなくなってしまう――からである。
この理論、お分かりになりますか?
正直なところ、私には理解しかねるしろものです。何やら最近の真正保守では、こういったとんでもツジツマ合わせが流行っているのかもしれませんが、よほど自分で考えるということを放棄していない限りは、引っかからないと思いますけどね。
ここで、『小説 男たちの大和』で児玉清が書いた解説を参照してみましょう。
日本は敗戦を境にして大きく変った。そして戦後六十年、日本人の生活は豊かで贅沢になった。しかし、果たして心はそれに見合うだけ豊かになったのだろか。
答えはノーのように思えてならない。こうした繁栄と物の豊かさと引き替えに、日本人はなにか肝腎なものを棄ててしまったのではないだろうか。
私は、藤井のツジツマ理論よりも、児玉の素直な感想に共感します。
確かに戦前と戦後で、自分を犠牲にしてでも国家を護るという心構えに大きな変化がありました。その点に絞って考えるなら、自分を犠牲にしてでも国家を護るという考えから、国家のために自分を犠牲にするなんてとんでもないと多数派の意見が変化したと言えるでしょう。憲法9条の思想が今なお強く残っていることが、それを裏付けています。
ここから、次の3種類の考え方が出てきます。
1 左翼:日本のために死んだ戦前は間違いで、死を回避して逃げる戦後が正しい。
2 児玉:日本のために死んだ戦前が正しくて、死を回避して逃げる戦後はおかしい。
3 藤井:日本のために死んだ戦前の経験から、死を回避して逃げる戦後も正しい。
私は当然ながら、“2”を支持します。こうやってまとめてみると、“1”と“2”の違いは前提の差であってツジツマ自体は合っていると思います。それに対し“3”は詭弁であり、ツジツマはまったく合っていないとしか私には思えませんけどね…。
ちなみに『永遠の0』では、谷川正夫という人物が次のように語っています。
日本は民主主義の国となり、平和な社会を持った。高度経済成長を迎え、人々は自由と豊かさを謳歌した。しかしその陰で大事なものを失った。戦後の民主主義と繁栄は、日本人から「道徳」を奪った――と思う。
お前はどうなんだ?
たいていの人が満たせないような偉大な人物の意見をもってくれば、簡単に他人を否定することができます。しかし、そのときに「お前はどうなんだ?」と問われることになります。実に当たり前な話です。
藤井は『葉隠』の思想を曲解して、「犬死か否かを問うことそれ自身を下らない戯れ言」だとメチャクチャな論理で批判を行っています。藤井は「否定せざるを得ぬおぞましき国家に成り下がったこの戦後日本」とまで言っているのですから、少なくとも三島由紀夫を見習って既に藤井は自死していないと筋が通らないわけです。まあ、現実に死んでみせた三島由紀夫は、藤井みたいなとんでも理論を展開してはいませんけどね。実際に『葉隠』の思想を正しく理解し、それを自身の命を賭けて実行するような者は、藤井のような理論展開はしないということです。
では、藤井に対して、お前はどうなんだとツッコミを入れてみましょう。藤井は非常に頭が良いので、そういったツッコミも想定済みです。問題の論稿の中で、既に次のように述べていますから。
改めて指摘するまでもなく、この武士道の思想はあらかた蒸発している
そう言ってから、すぐ後に( )を入れた形で次のように言っています。
(恥ずかしながら、かくいう筆者も含めて)
ですから、お前は「犬死か否かを問うことそれ自身を下らない戯れ言」と言って他人を非難しているけど、お前がそれを実践してないじゃないか、と藤井に詰問しても無駄なのです。なぜなら、藤井はすでに自分だけは例外扱いにし、高みの見物を決め込んでいるからです。
これがいわゆる、自分のことを棚に上げて他人には偉そうに言うってやつですね。
この自分を棚に上げるって、ものすごいテクニックですよ。だって、一方的に他人をいくらでも否定して悦に入ることができるわけです。非常に有効なテクニックなのですが、なぜか世の中の多くの人はこのテクニックを使っていないようです。
その理由は簡単で、このテクニックを使用するには一つの特性が必要なのです。それは、自分のことを棚に上げて他人を批判することは恥ではないと思えるという性質です。何だかんだ言っても、戦後日本にも恥という観念は残っているので、このテクニックを使う人はあまりいないんですね。まあ、そういった意味で、私は戦後日本にも希望は残されていると思います。
妻子への愛情は私的な欲望なのか?
『男たちの大和』をよく分からない理論で非難している藤井ですが、その批判の矛先は『永遠の0』へも向かっています。
戦争という国家の命運を分ける戦いの中における妻子への愛情という「生に向かう私的な欲望」を描いた『永遠の0』においても、同様の構造を見いだすことができる。
妻子への愛情から生を願うことを「私的な欲望」と言ってしまう言語センスは、残念ながら私には理解しかねるものです。真正保守派なら「私的な欲望」と言って満足するのでしょうが、私は日本思想に馴染んでいるものですから、とてもそのようには思えません。
例えば、この問題については、本居宣長が『排蘆小船』で見事に論じています。分かりやすくするために、中央公論社の『日本の名著〈21〉本居宣長』の現代語訳から引用します。
たとえば、戦場に出た武士が君のため、国のために一命を惜しまず、いさぎよく死地におもむくのは義士の道である。しかし、そういう武士も、死にのぞんで、故郷にのこした妻子のことをかなしく思わないだろうか。年老いた親にもう一度あいたいと思わないだろうか。最期のときにのぞめば、いかに剛勇をほこるあらくれ男でも、どうしてかなしい思いにとらえられないことがあるだろうか。そのときにあたって、親や兄弟や妻子の上に思いをはせ、かなしく、つらい思いに胸をかきむしられるのは、人情の自然であり、聖人も、凡人も、この点においてかわりはない。国のため、君のためにいさぎよく死ぬのは、男らしくきりっとしていて、だれもがねがい、うらやむことである。それに反して、親や妻子のことを思いだし、かなしみのあまりこころがみだれるのは、未練がましく、卑怯であって、女やこどものすることとかわりはないが、またそういう気持がまったくおこらないひとがいるとしたら、それはもはや人間ではなく、木石禽獣のたぐいである。
見事な意見です。さすが本居宣長だと、うなずかずにはいられません。
そもそも『永遠の0』では、妻子のために生を願いながらも、主人公である宮部久蔵が最期には特攻を選んだことがこの作品の妙味なわけです。最後まで生き残って妻子と再会していたら、ここまでの傑作にはなっていないはずです。そこの謎に触れた者は、私的に見えたものが公的なものに基づいていたことに気づくはずですが、どうやら藤井と私とでは、『永遠の0』からまったく違うことを読み取ったようです。
実際問題として『永遠の0』では、国家と家族をめぐる問題が丁寧に繊細に描かれています。登場人物を六人選んで、各人の心情をうかがい知ることができる箇所を少しだけ参照してみましょう。
宮部久蔵「真珠湾攻撃に参加するとわかっていたら、結婚はしませんでした」
長谷川梅男「誰だって命は大事だ。それに、誰にも家族はいる。俺には妻はいないが――父も母もいるんだ」
谷川正夫「しかし、志願したからには、潔く死ぬしかない。ただ加江のことだけが心残りだった。結婚するのではなかったと心から後悔した。しかしその一方で、加江を守るためなら死ねると思った。」
岡部昌男「もし私に恋人か妻がいれば、また違ったことを考えたのでしょうが、幸い私は独身でした。また想いを寄せた女性もいませんでした。だからその時、父母と妹のことだけが私の心に重くのしかかっていたのです。」
武田貴則「基地で夫の死を知らされた若い夫人も見た。国分でも宇佐でも沢山見た。悲しみと衝撃で立ち上がれなくなってしまう女性もいた。彼女たちを見ると、自分は結婚していなくてよかったと思った。しかし同時に、愛する女も知らないまま死んでいく自分が哀れにも思えた。」
大石賢一郎「あの時ほど、真剣に家族と国のことを思ったことはなかった。あの時ほど、自分がなき後の、愛する者の行く末を考えたことはなかった。」
私の責任において、断言しておきます。
思想的にも、哲学的にも、文学的にも、社会学的にも、政治学的にも、経世済民論的にも、心理学的にも、藤井聡の『戦う以前にウソを見抜け』よりも百田尚樹の『永遠の0』の方がはるかに格上です。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
今回の内容ですが、公と私の区別がついていないように見受けられました。
言葉を変えると個人というミクロの視点により過ぎていて、国というマクロからの視点が欠けている印象です。
個人として家族を大事にする視点や、特攻の前に命を惜しむはたから見たら臆病ととらえられる人もいたでしょう。
ですが、それを必要以上に正当化することは公(おおやけ)を疎かにすることにつながります。
もし個人の家族と国全体の利益を天秤にかけたとして、同じ重さもしくは個人の家族を重く見るのであれば、やはり戦後教育に毒されていると思いませんか。
トージさん、コメントありがとうございます。
> 言葉を変えると個人というミクロの視点により過ぎていて、
> 国というマクロからの視点が欠けている印象です。
私は、常朝が「国家をしっかりと安定させること」を重視していたという視点から、
藤井の『葉隠』理解が間違っていることを指摘しているわけですけど。
さらに、『永遠の0』には「国家と家族をめぐる問題」があることも指摘しているわけですけど。
もしかして、「国というマクロからの視点が欠けている」というのは、
私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
> 個人として家族を大事にする視点や、
> 特攻の前に命を惜しむはたから見たら臆病ととらえられる人もいたでしょう。
そうですね。『永遠の0』では、長谷川梅男という登場人物がそのような意見を述べています。
私は、彼の意見にも理があると思っていますので、
わざわざ記事中で彼の言葉を引用しているわけですが。
批判するにしても、
『永遠の0』を読んでからにしてほしいものです。
読んでいて、このような意見を言っているなら、
恥ずかしいので読解力を鍛えた方がよいですよ。
> ですが、それを必要以上に正当化することは公(おおやけ)を疎かにすることにつながります。
私の記事のどこが、必要以上に正当化しているのでしょうか?
私は公を考慮しているつもりですし、
公の観点から藤井に異議を唱えています。
『永遠の0』について、
「主人公である宮部久蔵が最期には特攻を選んだことがこの作品の妙味」だとも
きちんと言っています。
もう一度言います。
私の記事のどの部分が、必要以上な正当化に該当するのですか?
> もし個人の家族と国全体の利益を天秤にかけたとして、
> 同じ重さもしくは個人の家族を重く見るのであれば、
私は、そのようなことは全く言っていませんが。
私が言っていないことを、ねつ造して非難する行為は、
卑劣だと断ぜざるをえませんね。
> やはり戦後教育に毒されていると思いませんか。
私は、山本常朝や本居宣長の見解に同意して議論を展開しています。
もしかして、「戦後教育に毒されている」というのは、
私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
>私は、常朝が「国家をしっかりと安定させること」を重視していたという視点から、
>藤井の『葉隠』理解が間違っていることを指摘しているわけですけど。
>さらに、『永遠の0』には「国家と家族をめぐる問題」があることも指摘しているわけですけど。
>もしかして、「国というマクロからの視点が欠けている」というのは、
>私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
いいえ。木下さんの文章から受けた印象です。
欠けているというより公と私の分類が私と木下さんとで違うというほうが正しいかもしれません。
> 個人として家族を大事にする視点や、
> 特攻の前に命を惜しむこと(訂正)をはたから見たら臆病ととらえられる人もいたでしょう。
>そうですね。『永遠の0』では、長谷川梅男という登場人物がそのような意見を述べています。
>私は、彼の意見にも理があると思っていますので、
>わざわざ記事中で彼の言葉を引用しているわけですが。
>批判するにしても、
>『永遠の0』を読んでからにしてほしいものです。
>読んでいて、このような意見を言っているなら、
>恥ずかしいので読解力を鍛えた方がよいですよ。
>>ですが、それを必要以上に正当化することは公(おおやけ)を疎かにすることにつながります。
個人の自由を認めれば、公が制限されるという一般論だとご理解ください。
>私の記事のどこが、必要以上に正当化しているのでしょうか?
>私は公を考慮しているつもりですし、
>公の観点から藤井に異議を唱えています。
>『永遠の0』について、
>「主人公である宮部久蔵が最期には特攻を選んだことがこの作品の妙味」だとも
>きちんと言っています。
>もう一度言います。
>私の記事のどの部分が、必要以上な正当化に該当するのですか?
上の通り個人の自由を認めれば、公が制限されるという一般論だとご理解ください。
>> もし個人の家族と国全体の利益を天秤にかけたとして、
>> 同じ重さもしくは個人の家族を重く見るのであれば、
>私は、そのようなことは全く言っていませんが。
>私が言っていないことを、ねつ造して非難する行為は、
>卑劣だと断ぜざるをえませんね。
公と私の分類を例示しただけで、それ以上の意味はありません。
>> やはり戦後教育に毒されていると思いませんか。
>私は、山本常朝や本居宣長の見解に同意して議論を展開しています。
>もしかして、「戦後教育に毒されている」というのは、
>私ではなく藤井のことを言っているのでしょうか?
どうもこちらの言葉遣いが良くなかったようですね。すみません。
「私的に見えたものが公的なものに基づいていたことに気づく」
これが良く分かりません。もう少し詳しく解説していただけないでしょうか?
> 欠けているというより公と私の分類が私と木下さんとで違うというほうが正しいかもしれません。
そうですね。公私の定義がまったく異なっているようです。
私の公私についての考え方については、『世界と国家と人生』を参照ください。
http://asread.info/archives/241
参照していただければ分かりますが、
私の定義は『十七条憲法』・貝原益軒・荻生徂徠・上杉治憲・福沢諭吉などの
考え方に基づいています。
> 個人の自由を認めれば、公が制限されるという一般論だとご理解ください。
トージさんの定義に基づけば、
「個人の自由を認めれば、公が制限される」ことが公私の一般論として成り立つわけです。
私の定義では、それは一般論として成り立ちません。
なぜなら、個人の自由(為すことを許された範囲)を認めることが公に適うこともあれば、
個人の自由を認めることが公を制限することもあるからです。
抽象的にも区別が必要ですし、状況によっても区別が必要です。
当たり前の話ですね。
> 「私的に見えたものが公的なものに基づいていたことに気づく」
> これが良く分かりません。もう少し詳しく解説していただけないでしょうか?
例えば、小説の二章のあたりでは、
宮部は命を大事にしていたが命令でいやいや特攻に行かされたと指摘されているわけです。
これは、どうみても私的な理由です。
しかし、物語が進むにつれて、特攻の理由に公の心があることが見えてくるということです。
小説版で分からない場合は、漫画版と映画を見るべきです。
その理由について、少し踏み込んで描かれているからです。
小説版・漫画版・映画をすべて見て、それでも分からない人とは、
残念ながらわかり合えることはないでしょう。
藤井さんの発言について「国家の命運のために死んで見せること」を公的な理想として掲げることは必要で大切なことであると思います。
しかし、この理想の前提には「そうして戦うことで妻子を守る・妻子への愛情を果たすこと」というものがある筈です。
その前提を無視して理想のみを語っては片手落ちというか、その理想さえも、かえって上手く成り立たないのだと思います。
でういさん、コメントありがとうございます。
> 藤井さんの発言について「国家の命運のために死んで見せること」を
> 公的な理想として掲げることは必要で大切なことであると思います。
公的な理想として、国家の命運のために死んで見せることを掲げることが、
必要であり大切なことであるとの指摘、もっともだと思います。
> しかし、この理想の前提には「そうして戦うことで妻子を守る・妻子への愛情を果たすこと」
> というものがある筈です。
まったくその通りだと思います。
> その前提を無視して理想のみを語っては片手落ちというか、
> その理想さえも、かえって上手く成り立たないのだと思います。
私もそう思います。
素晴らしいコメントありがとうございます。
お示しいただいた記事読ませていただきました。
やはり木下さんの意見は個人から見た公(または世界)側によっているように思います。
特攻が個人にとって私から公になっていくこと。個人が家族のために戦うことが、公に繋がることというのも大事なことですが、それ以上に、国民の集団、軍などの集団の公の正しさというものが大事だと考えます。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈公なる者は私の反なり。衆の同じく共にする所、これを公と謂ふ。己の独り専らにする所、これを私と謂ふ〉
この衆の同じく共にするところのことですね。
そして個人が公のために特攻することだけを美談として語ることで、軍としての特攻の公の正しさが問われないのは、特攻を語る上で不十分だと存じます。
また特攻隊1人1人という単位には、他の日本国民全員の集団である日本国の公を語る単位として小さすぎることに注意が必要です。
木下さんは日本国としての公は語っていないですが、小説として特攻隊を語り、公のためだというのであれば、全体の公を語らないことには大きな弊害があります。
また特攻には、本人は名誉など、綺麗に亡くなれますが、残された者に対する責任の放棄という側面があります。自分の命に対する責任もあります。
繰り返しますが、個々の特攻隊の犠牲は尊いものです。
ですが、語る以上はそれ相応の覚悟は必要だと存じます。
トージさんのコメントに対する回答は、これで最後にします。
彼の今までの言説から、最低限の知的誠実性がないと判断したためです。
彼の公私の定義は、
「個人の自由を認めれば、公が制限される」ことが一般論として成り立つものであり、
私の定義(過去の日本人の意見を参照したもの)とは異なっています。
彼は、彼の勝手な定義によって私を批判しているため、議論が成り立ちません。
また、彼の言説は建設的な議論を目指したものではなく、
私にイチャモンをつけることが目的化しているとしか思えません。
私の記事は、藤井の論稿で納得いかない箇所を批判したものです。
それに対し、以下のように何々を語っていないという非難をしているわけです。
> 軍としての特攻の公の正しさが問われないのは、
> 特攻を語る上で不十分だと存じます。
> 全体の公を語らないことには大きな弊害があります。
私が公を否定しているという非難なら議論になるでしょう。
私がテーマに挙げていて、それなのに論じていないという指摘も議論になるでしょう。
しかし、記事の論旨から外れた大枠で抽象的なテーマを持ち出して、
お前はそれを語っていないと言い出すってのは、実に恥ずかしいですね。
その手口が有効なら、相手をいくらでも非難できてしまいますからね。
まともな議論などするつもりがなく、ただただ私を貶めたいだけなのが良く分かりますね。
> また特攻には、本人は名誉など、綺麗に亡くなれますが、
> 残された者に対する責任の放棄という側面があります。
> 自分の命に対する責任もあります。
> 繰り返しますが、個々の特攻隊の犠牲は尊いものです。
> ですが、語る以上はそれ相応の覚悟は必要だと存じます。
もはや、トージさんはご自分が何を言っているのか分からなくなっているのかもしれません。
「残された者に対する責任」や「自分の命に対する責任」は、
『永遠の0』でしっかりと描かれていたものであり、私はそれも含めて擁護しているわけです。
最低限の知的誠実性がない人との議論は、不毛なものだと再確認させていただきました。
本日(9月9日)の『三橋貴明の「新」日本経済新聞』に、
『【藤井聡】永遠に「ゼロ」?』が掲載されています。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/09/09/fujii-107/
一読をお勧めします。
私は、あまりの内容に脱力してしまいましたが・・・。
9日の藤井さんの記事を読んでみましたが
葉隠についての記述が一切なかったのでもやもやしました。
>自分に都合の良い判断基準を勝手にもってきて、それによって他者を否定する
(本論1ページ目より)
という良くないことを『戦う以前にウソを見抜け』において行っただけに留まらず
そもそも、単に当人による映画への批判の口実として葉隠れを利用しただけではないか
という疑惑すらわいてきます。
つまり結論ありきで、批判のために都合よく利用できれば何でも良かったのではないかと。
本や映画などから受けとる印象や感想はは当然人それぞれ違うものではありますし
それをどう表現しようが基本的には自由ではありますが
もし上記の疑惑のとおりであるなら
せめて初めから自分自身の言葉で批判を行うべきであったと思います
でういさん。今度も素晴らしいコメントありがとうございます。
> つまり結論ありきで、批判のために都合よく利用できれば何でも良かったのではないかと。
私もそうだと思います。
> せめて初めから自分自身の言葉で批判を行うべきであったと思います
まったくその通りだと思います。
『永遠に「ゼロ」?』への反論も執筆予定です。
今回の記事の件では、
きちんとした反論などは皆無で誹謗中傷ばかりという状況です。
私に来る分にはまだしも、ASREAD編集部への誹謗中傷も多く、
まことに申し訳なく思っております。
そんな中、無名のサラリーマンVS京都大学教授という権威格差がありながら、
でういさんのように書かれている内容に基づいて意見をくださる方には、
心から感謝いたします。
誹謗中傷だらけで疲れている私にとっては、
砂漠で見つけたオアシスのように感じられます。
素晴らしい意見をありがとうございました。
こんにちは。一つ質問がございます。
>特に「死」については、
>何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候。
>と記されています。
>つまり、『葉隠』の「死」の考え方を安易に持ち出して、他者を批判してはならないのです。『葉隠』の>「死」の観念を受容する者は、ただ自身の人生を賭けてその内実を示すしかないのです。
このよう書かれますと、木下様ご自身が葉隠における「死」の考え方を持ち出して、藤井氏を批判するというロジックになってしまっているように思われ、少し矛盾があるように感じてしまうのですが、その点につき木下様のご見解をお聞かせ頂けると幸いです。
矛盾でしょうか?
うま様のおっしゃってるのは、「死狂ひ」という考えそのものと、「何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚
悟仕(つかまつり)たる迄にて候。」という考えをごっちゃにした言葉遊びに見えます。
うまさん、shoさん、コメントありがとうございます。
shoさんが見事に答えてくれていますが、矛盾にはなっていません。
簡単に言っておくと、
自分が実践していくタイプの思想と、
他人に強制していくようなタイプの思想は違うということです。
そのタイプの違いをごっちゃにしたり、誤用したりしてはいけないということです。
この作品は、左翼的思想の上に葉隠の精神を利用していると、私は、感じたのですが。
木下氏に質問します。
藤井氏も問題定義していますが、部下が上官に対して「この特攻は、犬死にではないか」と忠告しました。
これは木下氏の言うとうり、葉隠の精神です。
しかし上官は「新しい日本をつくるためだ」と…………
葉隠の精神は、武士(兵士)のありかたを解いていますが、ここで一番大事なのが、主君(上官)のありかただと考えます。この上官のありかた、つまり、私たち(作者)一人一人の思想、考え方が問われるのではないかと。
木下氏は、部下に同じ様な事を忠告されたら、どの様な言葉を発しますか。
文太さん、コメントありがとうございます。
> 木下氏は、部下に同じ様な事を忠告されたら、どの様な言葉を発しますか。
まず、軽々しく答えるような質問ではないと考えます。
それでも、あえて方向性を述べるなら、
本記事で示した『永遠の0』景浦の台詞が一つのヒントになるかと思います。
そのヒントをベースにしつつ、私なら3つの論点を挙げて回答します。
せっぱ詰まった場面で、そんなに話せるのかという突っ込みはおいておいて(笑)
これ以上に具体的な回答は、
相手側の議論水準が必要になります。
そのため、失礼ですが文太さんのコメントの内容で分からなかった点を質問し、
その回答によって判断させていただきます。
ここを見ている人が分かるように書いてください。
> この作品は、左翼的思想の上に葉隠の精神を利用していると、私は、感じたのですが。
【質問1】
「この作品」とは、私の記事でしょうか?
それとも、藤井の原稿のことでしょうか?
【質問2】
「左翼的思想」とは、どの部分の文章であり、
それを左翼的だと判断した根拠を示してください。
多くのコメントありがとうございます。
本記事の執筆者である木下です。
コメントはありがたいのですが、
最低限の知的誠実性がない人との議論は不毛なものになってしまいますし、
私としても時間には限りがあります。
そのため、今後は私の判断で、
返信するコメントを厳選させていただきます。
以上、よろしくお願いいたします。
この作品とは、男たちの大和、永遠の0のことです。
左翼的思考というよりも、現代的思考と言った方が、正しいかもしれませんので、まず訂正させていただきます。
(左翼の定義も議論の対象になるのでやめときます。)
まず木下氏が、私の質問に対して「軽々しくこたえるような質問ではない」と言う言葉に敬意を表します。
私も同感であり、私自身もこの答えに、悩んでいるところです。
しかしながら、木下氏に答えがあるのなら、まず私の質問に答えて頂きたい。
木下氏の答えが作品のストーリーに乗っとた、答えなのか。
それとも自己の思想に乗っとた答えなのか。
この答えで木下氏の議論水準が解りますので。
考えてもわからないところがありました。
できれば教えていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
質問
2ページ目の記述に、
3 藤井:日本のために死んだ戦前の経験から、死を回避して逃げる戦後も正しい。
とありますが、
木下さんは、「藤井さんの考えは
日本のために死んだ戦前の経験から、死を回避して逃げる戦後も正しい」
ではないかと判断したということでしょうか。
1 左翼、2 児玉、3 藤井と並べたのは何についてなのか補足がほしいです。
回答して下さると有難いです。