頭が良いとはどういうことか、考えるとはどういうことなのか
- 2014/3/3
- 文化
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無意識領域からやってくるあなたの思考
ここで重要なことのひとつは、どうしてもその無意識の領域における思考プロセスはブラックボックスになっていて、確かに、自分自身の脳内で起こっている思考であるにも関わらず、それを意識化することが出来ない。つまり意識がアクセス不能な領域において行われているということです。
しかし、よくよく考えてみると、反射的な思考は意識的なプロセスであり、それに対して、じっくり時間をかけて取り組む思考プロセスは無意識の領域において行われるという腑分けは無意味であるかもしれません。
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』という著書の中で、科学ジャーナリストのトール ノーレットランダーシュは、そもそもあらゆる思考は無意識的なプロセスにおいて行われるという大胆な仮説を提示しています。
たしかに思考は意識的な活動だ。誰もがそう思うのではないか。
「私が実際に思考しているとき、頭の中に言葉はまったく存在しないと断言できる」フランス系アメリカ人の数学者ジャック・アダマールは一九四五年に有名な著書『数学における発見の心理』
に書いている。「質問を読んだり聞いたりした後でも、それについて考え始めたとたん、言葉は一語残らず消えてしまう。その問題を解決するか投げ出すかするまで、言葉が私の意識に再び現れることはない。・・・『思考は言葉で具現化された瞬間に死ぬ』とショーペンハウアーは書いているが、私はこれに全面的に同意する」(中略)
意識と言葉は同じではない、と反論する人がいるかもしれない。たとえそのとき言葉で表現しなくても、何をしているのか意識することはできる、と。最後に夕食に魚を食べたのはいつだろうか。ずっと前だからといって、なにも恥じることはない。魚が体にいいことはたしかだが。金曜日だったか、祝日だったか。きょうだったか。
質問を受けた人は、たしかに質問に意識を留め、答えにも意識を向けている。しかし、最後に魚を食べたのはいつかを思い出そうとしている間、何について考えていただろう。頭の中で何を探していたか。政治家を気どってこう言っていた(もしくは考えていた)かもしれない。「えー、手元の資料に基づいてお答えしますと、はっきりは申せませんが、それはおそらく・・・」ところが、はっ!と突然思い出す。「先週です。マスを食べました。おいしかった」(P219)
できれば、ここで皆さんにも実際に、自分が最後にいつ魚を食べたのか思い出し、同時にそれを自分が思い出している時間中、自分の脳がどのような思考を行っているかを意識的に観察してみて欲しいと思います。もし、魚を食べたばかりであれば、最後にカレーを食べた日でも構いません。このような、この上なく簡単な実験と内観によって得られる結論は、非常に衝撃的なものなのではないでしょうか?つまり、私たちは、「最後に夕飯に魚を食べたのはいつか?」などという極めて簡単な思考でさえ、実際に脳がどのように思考を行っているのかを知ることが不可能なのです。
「えー」は、私たちが何かを考えているとき、意識が働いているように見せようとして使う言葉だ。だが、実際には思考はきわめて無意識的に行われる。ジェインズの言葉を借りれば、「思考過程は、普通それこそ意識の本質だと思われているが、実際にはまったく意識されていない。・・・意識の上で知覚されるのは、思考の準備と材料、そして最終結果だけである」これは都合のよいことでもある。想像してみてほしい。最後に魚を食べたのはいつかという質問が引き金となって、ここ二、三週間の食事のすべてを意識の上で振り返ることになったらどうだろう。口に合わなかった食事まで全部意識的に思い出すとしたら。あるいは、年中行事の時に出される伝統的な料理を一つ一つ意識しながら思い出すとしたら。思考は、実に耐え難いものになるだろう。
「意識の上で知覚されるのは、思考の準備と材料、そして最終結果だけ」というのは、先ほどのスープのたとえや、西部さんの漬物のたとえにそっくりではないでしょうか?準備と材料と、最終結果は意識される。しかし、思考のプロセスだけはどうしても無意識的で不可知であるのです
では、食事うんぬんより高等な質問はどうだろう。ジェインズは次のような実験を考案した。
○△○△○△○・・・
次に来る記号は何か。わかった!答えは見つけた瞬間に現れる。「えー、これは難問だ」と思ったかもしれない。しかし、答えはわかった瞬間にわかるものだ。そしてそれは「えー」と思うこととは関係がない。
思考は無意識の活動だ。あるいは、フランスの偉大な数学者アンリ・ポアンカレが一九世紀の終わりに言ったとおり、「ようするに、閾下の自己は意識ある自己より優れているのではないだろうか」
スペインの偉大な哲学者であるオルテガは、『大衆の反逆』にて、彼一流の芸術的なレトリックを用いながら、「バカは死ぬまで治らない」と書きましたが、そもそも思考プロセスが、実質的にほぼ全て無意識の領域で行われるならば、やはり、意識的に思考プロセスを改善するのは非常に困難であり、バカが死ぬまで治らないのもやむ無しかなと思えなくもありません。
思考が、意志の力でコントロールすることが困難であることも、やはり多くの人にとって経験的に実感できるのではないでしょうか?たとえば、西郷隆盛や三島由紀夫あるいは、二宮尊徳といった優れた人物の伝記を読んで、
「よし、私もこれからの人生清く正しく誠実に生きていこう!!」
と固く決心したとします。しかし、残念ながら、ほとんどの場合、その決意は、せいぜい数週間、あるいは、数日、いや場合によっては数時間後には忘れ去られ、いつのまにか「別に、真面目にやったところで、何か得するわけでもないし」「どーせ、世の中みんな何かしらズルをしながら生きてるんだ、俺だって少しくらいズルをしたって何が悪いんだ?」といつもどおりの自堕落な思考に流れてしまったというような経験は誰にでもあるのではないでしょうか?ダイエットのような決意であっても同じです、痩せようと決断した時には、決して破ることのない誓いであっても、すぐさま無意識の領域からよからぬ考えが湧き上がってきます、「別に、痩せたからといって、あの人が振り向いてくれるわけでもないし」「今日くらい、甘いモノを食べたってすぐに太るわけでもない」等々・・・。どんなに意志の力で、自分の思考や行動を制御しようとしたところで大抵の場合それは失敗に終わるということを多くの人は骨身に染みて理解しているのではないでしょうか。
それでは、人の思考プロセスは、どのようにして、形成されるのでしょう?
評論家の中野剛志さんは、かつて平成以降のさまざまな構造改革における思考的バックボーンとなっている、「どこかに既得権で甘い汁を吸っている連中がいる。そいつらを引きずり落として困らせてやれば、自分たちにもその甘い汁の分け前が巡ってきて、楽になれるかもしれない」というような考え方に対し、「私は、こういう考え方をしちゃいかんってお袋に教わったんですけどね」と述べていました。やはり結局のところ、このような一見遠まわしで間接的なアプローチを経ることでしか、人間の思考プロセスは形成されえないのではないでしょうか?
今後、もしかすると、脳や人間の心理がより深く解明されることにより、人間心理の無意識の領域に効率的にアプローチする何らかの手段が開発される可能性もあるのかもしれません。しかし少なくとも、現在の時点においては、様々な試行錯誤を経てなんとか、なかなかいうことを聞いてくれない自分自身の無意識の領域をなんとかなだめすかし、説得していくような非効率な方法でしか自らの思考プロセスを改善することは不可能なのではないかと思います。
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