思想遊戯(11)- パンドラ考(Ⅵ) 佳山智樹の視点(大学)

第四項

 サークル発足の第一弾として、まずはテーマ“パンドラの匣”で議論することになった。一葉さんのパンドラの匣の説明から、議論が開始となった。
 話が続いていき、水沢がパンドラの匣の話に詳しいことに僕は驚いていた。
祈「……そこではなぜか匣の隅に小さい光る石が残っていることになっていて、しかもその石に希望という文字が書かれていたという設定になっているのです。変な脚色が付け加えられているわけです。先ほど高木先輩がおっしゃったように、その時代でイメージしやすいように題材が加工されているような気がします。」
 水沢が太宰治の『パンドラの匣』の話をしている。
千里「何で石に希望って文字が書かれていたのかしらね?」
 高木先輩が水沢の話に応えている。
 石…。希望…。
 僕に、あの日の出来事が襲い掛かる。

「この石は“虚無”です。」

 そう、彼女は言ったのだ。
 石は、虚無と希望をあらわす?
 石、石、石。
石は虚無にもなり、希望にもなる?
 石、物、具体的な物体。
 具体的なものが抽象的なものに。
 それは比喩?
 比喩表現が意図すること。
 意図は伝達を前提。
 そこには、彼女の意図が…。

祈「どうしたの? 智樹くん?」
 水沢の声で、ハッと我に返る。僕は、何を考えていた?
智樹「いや、ごめん。何でもない。」
祈「本当?」
 誤魔化すために、思いついたことをそのままに話す。
智樹「なあ、パンドラって、その後どうなったのかな?」
祈「えっ?」
智樹「だから、パンドラ。匣を開けた後に、どうしたのかなぁって…。」
琢磨「ああ、確かに気になるよな。どうしたんだろうな?」
 乗ってくれたのは、琢磨。サンキュ。
祈「ヘシオドスは、パンドラのその後は記述していなかったと思うけど。」
 水沢も話に乗ってくれる。
智樹「まあ、そうなんだろうけどね。それでも、どうなったのかなぁって気になるわけよ。」
祈「どうもなってないんじゃないかなぁ。そのまま、普通に暮らしたんじゃないかなぁ?」
智樹「そうかもしれないけどね。」
 僕は、日本神話のイワナガ姫のことを思い出していた。神話において、ある種の不幸を担う女性は、その役割を演じて不幸を演出する。そこで、その女性の役割は終わるのだ。しかし、その女性にだって、その後の人生があるはずだ。
 いや、パンドラもイワナガ姫も架空の登場人物でしかない。僕は、何を考えているのだろう? 少し混乱しているのかもしれない。
 パンドラについて各人の意見がいくつか出たところで、一葉さんが発言した。
一葉「アメリカの作家のブルフィンチが、パンドラの匣を紹介するときに面白いことを言っています。」
智樹「どんなことですか?」
 僕は続きをうながす。
一葉「まずブルフィンチは、通常の解釈、つまり蓋をあけると肉体的および精神的な禍(わざわい)が飛び出し、最後に底の方に希望が残った話をします。その次に、別の説を提示します。それは、箱の中には神々から贈られた祝いものがつまっていて、箱を開けると祝いものが逃げ去って希望だけが残ったという話です。ブルフィンチ自身は、後者の方がもっともらしいと言っています。前者では、禍の中に希望があるのは変だから、というわけです。」
琢磨「なるほど。」
 琢磨がうなずく。こいつも、なんだかんだ言って理解が早くて助かる。
一葉「歴史的に見ても、パンドラの甕なり匣なりの容器には、あらゆる悪が入っていたとする説と、あらゆる善が入っていたという説に分かれています。善悪が混在して入っていたというのは、歴史的には見当たりません。ですから、容器の中には善が詰まっていたのか悪が詰まっていたのかの二択になります。ここで、重要なポイントは最後に希望が残ったという点です。」
千里「それだったら、ブルフィンチがいうように、善が詰まっていたってことにしかならないんじゃないかな? 悪いものが詰まっていて、それが飛び出していって、最後に希望が残ったっていうのは確かに変だもの。」
 高木先輩が、僕と同じ考えを表明した。僕も横でうなずく。
一葉「そうかもしれないけど、違う可能性も考えることができるよ。」
千里「例えば?」。
一葉「例えば、ニーチェが面白いことを言っているの。希望は本当は禍(わざわい)の中でも最悪のものである、と。」
 僕はゾクッとした。
智樹「ニーチェは、もしかして、希望が悪に分類されると考えていたということですか?」
一葉「はい。そうですね。少なくとも、ニーチェはそう考えていたみたいです。つまりゼウスが、人間がどれだけ禍によって苦しめられても、自殺をせずにさらに苦しみ続けるように望んだという説です。そのために、ゼウスは人間に希望を与えたというのです。希望は、人間の苦しみを長引かせる効果があるからです。」
 彼女の透き通った声が、少なくとも一つの真実を語る。その彼女の声の響きと相まって、僕は怖くなる。僕は、何が怖いのだろう? 僕は、何を怖れているのだろう? その対象の不明確さが、僕の恐怖を倍加させる。
祈「つまり、パンドラの匣には、悪が詰まっていて、最後に残った悪が希望だったというわけですね?」
 水沢が冷静に言葉を返す。
一葉「はい。そうですね。少なくとも、ニーチェにとっては。」
祈「ゼウスの意図が正しく機能するためには、人間自身が、その希望を悪ではなく善だと思っていなければなりませんよね? 様々な悪が飛び出し、最後に残ったのが悪の一つではなく、善である希望だと。そのように人間が思っていないといけない…。」
一葉「お見事です。水沢さん。」
 そう言って、一葉さんは水沢に賛辞をおくる。これには、高木先輩も驚いているみたいだ。僕と琢磨は、めっちゃ驚いているわけですが。
一葉「実はですね、水沢さん。もう一つ面白い解釈があるのです。聞いていただけますか?」
祈「…どうぞ?」
 一葉さんは、手帳を見ながら話し出す。
一葉「『ランダムハウス英和大辞典』の第二版には、パンドラの匣についての新しい解釈が示されています。それは、匣にとどまった希望とは未来の予知能力であるという定義です。」
祈「………。」
一葉「これが、どういう意味か分かりますか? 水沢さん。」
 水沢は、大きく深呼吸している。それから、ゆっくりと視線を一葉さんと合わせ、話し出す。
祈「それはおそらく、希望そのものが、未来を知らないことに基づいているからでしょう。」
一葉「お見事です…。」
 二人は、黙って見つめ合っている。
 ここで空気を読まず、というより、空気を読んでおずおずと琢磨が口をはさむ。
琢磨「…すいません。よく分からないのですけど…。」
 それを受けて、一葉さんが解説を行う。
一葉「希望というのは、未来への期待にかかっているということです。未来は良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。それが分からないから、人間は未来が良くなるように努力します。ですが、完全な未来予知ができてしまうと、未来はすでに決まったことになってしまい、改善の余地がなくなってしまいます。未来は、こうあってほしいものから、そうならざるを得ないものに変化してしまうのです。未来が固定され、変更できないものになってしまっては、人間は希望を抱くことができない、ということです。」
 琢磨はコクコクとうなずいている。
琢磨「なるほど~。」
智樹「では、希望が未来予知だとしたら、匣に入っていたのは善悪のどちらになるのですか?」
 浮かんだ疑問を投げかける。
一葉「智樹くんは、どちらだと思いますか?」
智樹「僕は…、正直分かりません。」
一葉「そうですか・・・。」
智樹「ただ、敢えて言えば、やっぱり禍のような気がしますけど。」
一葉「そうですか。智樹くんは、未来予知を悪に分類しているわけですね。では、水沢さんはどうですか? 智樹くんの意見に賛成ですか?」
 僕は水沢を見た。水沢は僕の方を見ずに、一葉さんを見つめたまま言った。
祈「確かに、そのように考えることもできます。未来予知は悪に属するものだと。しかし、…。」
一葉「しかし?」
 一葉さんが、可愛らしく首をかしげて聞く。
祈「…しかし、未来予知は善だと考えることもできると思います。希望が未来予知である場合、箱の中身は善でも悪でも成り立ってしまうからです。」
一葉「…水沢さん、素晴らしいですね。」
祈「…ありがとうございます。」
一葉「では、その善悪を分かつ基準は、何だと思いますか?」
祈「それは…、いや、それこそ、上条先輩の方は、どう考えているのですか?」
 水沢は、質問を質問で返した。あれ、わざとだな。
一葉「私ですか? そうですねぇ。未来予知を善と判断するか悪と判断するか、それは、その人の心持ち次第なのでしょう。智樹くんは、未来予知を悪だと判断しました。私は、水沢さんがどのように判断したのか、とても気になります。」
 そう言って、一葉先輩は満面の笑みを浮かべるのだ。水沢は、静かに一葉先輩を見据えている。
祈「私の判断は、すでに言いました。未来予知は、善悪の両方で成り立つ、と。」
 その答えを聞くと、一葉先輩は本当に嬉しそうに微笑んだ。
一葉「やっぱり、素敵です。私と同じですね。」
祈「そうですか?」
一葉「はい。」
 そう言って、一葉先輩はやっぱり静かに微笑むのだ。空気を読んだのか、高木先輩が口をはさむ。
千里「一葉。あんたのそのノリ、いきなり炸裂させるのはどうかと思うよ。もうちょっと、時間をかけてから見せていこうよ。」
一葉「え~、ちーちゃん。ひどいこと言うな~。」
 とたんに一葉さんの雰囲気が違うものになり、場の空気がドッと和む。
千里「まあ、一葉もまだまだ語りたそうだけど、初日だし、もう結構話し込んで遅くなったし、今日のところはこんな感じでお開きにしよう。」
 そう言って、高木先輩が場をまとめようとする。
一葉「え~。」
 一葉さんが抗議の声をあげる。僕としては、もっと一葉さんの話を聞いていたいところだけど、今日のところは高木先輩の言う通りにしておいた方がよいな。一応、僕、幹事長だし。
智樹「では、議論が白熱しているところではありますが、今日のところはこれで終わりましょう。」
一葉「む~。」
 一葉さんが、可愛らしい声を出す。高木先輩と絡むと、一葉さんのイメージが一気に可愛らしい感じになるなぁ。
智樹「まあまあ。サークル“思想遊戯同好会”は今後も続いていくわけですし。あっ、今後は、水曜の放課後に、ここの教室を借りられることになっています。一応、強制ではないです。来られる人だけで集まって、テーマを決めて何かを論じ合うっていうスタンスで行こうと思っています。何かご要望などありましたら、僕まで連絡ください。」
 そうして、初日は予想以上に議論が白熱して終わったのであった。一葉さんの発言のレベルの高さはもちろん、水沢がすごかった。僕は、この先の活動も楽しくなりそうで嬉しくなった。高木先輩も、大人だし常識人だし好感が持てた。琢磨も発言はまだ少な目だけど、理解は早いし、自分なりに発言しようとしているところが良い感じだ。
 今後の活動を頑張っていこう。

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西部邁

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