正義と悪に二分された社会をサバイブするための手がかりとは 劇評:笑の内閣『ただしヤクザを除く』

既成事実を作るということについて

 健全な社会に生きる市民であれば、普通は暴力団を遠ざけるところだ。しかし、芽衣子は昼休憩時に一旦自分でピザを購入してから、清水が待機する公園に出向いて売る。その行為はやがて他の従業員の知るところになるのだが、それまで彼女はこの行為を毎日繰り返す。なぜか。初めて清水にピザを提供した際に、清水の幼い子供が、この店のチュニジア風ピザが好きだと聞かされたからである。不遇だった清水自身の身の上話と併せてそのことを知った芽衣子は、きちんと代金を受け取ってピザを売ることにしたのだった。新卒で入社して店長に就任した芽衣子は、某餃子チェーン店のような新人教育を受けた。店のピザをこよなく愛し、それを求める顧客の笑顔を第一に考えて尽くし、感謝されることに喜びを見出す「エリート社員」である。そんな彼女にとっては、たとえ暴力団といっても大切なお客様なのである。その勢いがあまって、密接交際者に認定されて店のイメージが低下すれば、大好きなピザを顧客に提供できなくなってしまうことに気付いていない。飲食チェーン店の体育会的、あるいは宗教がかった教育は、それほどまでに人を盲目的に追従させる。そのような洗脳染みたマニュアル教育をほどこされた芽衣子は、資本家から搾取される一労働者に過ぎない。そういう意味で芽衣子は、若手男性アルバイトのJ・Jサニー松葉が信条とする、人権が脅かされた存在と言っても良い。そして清水も、フロント企業で働いた金をシノギとして組に上納している被搾取者だ。世間からすれば一見、正義=芽衣子、悪=清水と峻別されているように見る。しかし2人は互いの世界を知らず、自身がいる組織の中しか見えない蛸壺化した人生を送っている点では同じなのだ。だからこそ、清水という反社会勢力とされる人物から必要とされることは、単に金銭を介して物品をやり取りする資本の論理を越えた、人間的な温もりのようなものを芽衣子は感じたのではないか。そこには、家庭の複雑な事情によって新潟から広島へ流れて組事務所に拾われたという、清水の個人史を知ったことも大きく寄与していよう。ピザを通じて清水と関係することは、芽衣子にとっては別世界への越境に感じられたのである。

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撮影=松山隆行

 しかし、先述したように芽衣子と清水が置かれた立場は同じである。人間的な関係性を築いたと思ったのは、彼女の幻想でしかなかったことがやがて露呈する。清水がチュニジア風ピザを求めていたのは、おまけに付いてくる流行のカードが目当てだったことが判明するからだ。たまたま購入したピザに付いてきたのがレアカードで、それを売ってピザ代の何倍もの金を手にした。これに味をしめた清水は、レアカードを売って手っ取り早くシノギを稼ごうとしただけだったのだ。清水が単に金のためにピザを求めていたことを知った芽衣子は、とたんに冷める。ラスト、もしヤクザを辞めたら雇ってくれるかと清水が尋ねた時、芽衣子は何も言えなくなる。芽衣子が行った清水への歩み寄りは、あくまでも共にピザを愛するという仲間という前提があってこそ成り立っていたものである。自分が好きなものを同じテンションで受け入れなければ相手を拒否する態度は、結局自らの都合を優先する身勝手なものでしかない。とはいえ、暴力団が実際に自身のエリアに入ってくれば、我々はやはり拒否して距離を取るだろう。だがそれが、暴力団ではなく例えば性的マイノリティーであったり異人種であったらどうか? 簡単に拒否してしまう態度は差別へとつながりはしないだろうか? そう考えると本作で問われているのは、単なる暴力団との関係だけでない。自他を分断することの是非は、移民を受け入れるか排斥するかという昨今の国際的な問題にも通低してくるのである。立場の異なる者との共生という理想を語ることはたやすいが、いざ身近にその問題が突きつけられた時には、「心優しい市民」の本音が曝け出されるという現実。そのことが、芽衣子の態度からうかがえる。なお、J・Jサニー松葉は人権を盾にサービス残業をせず、顧客への必要以上な接客もしないため、店内では浮いた存在だ。彼の人権思想は、神の下では人間は皆平等というキリスト教に基づくものである。人間が定めた法律や世間の空気といった恣意的なものではなく、普遍的な人間の権利を謳って最後まで清水の人権を主張する彼の態度は、芽衣子と対照的な芯の通った存在として印象深かった。
 正義と悪が結局、二分して没交渉的に自閉する。かといってJ・Jサニー松葉のように強く自らの信念を貫くことも難しい。この状況を突破する方法はないのか。まったくその手がかりがないわけではない。女性パート店員の俊恵の存在がそれだ。実は彼女は、三代目高間一家組長の妻であることが劇後半で発覚する。となれば、彼女を雇い続けるピザ屋はすでに利益提供者だったことになり、即刻、解雇すべきだ。しかし俊恵は現在、夫とは離婚調停中で面会していないこと。そのため自活する必要があることを伝えたことで、その危機を逃れる。俊恵が清水と違うのは、いつの間にか市民社会に入り込み、反社会勢力との境界線上にいることである。そのことだけを取れば、暴力団が働くフロント企業と同じように思える。だが清水のように組織に属さず、あくまでも俊恵は個人で動いていることが重要である。つまり、自由な存在なのである。この身軽さでもってゲリラ的にぬるっと市民社会に浸透しておくということ。もし反社会勢力と関わっていることが発覚しても、すぐには切り捨てられないような人間関係を築いていたために、俊恵は解雇を免れることができたのだ。俊恵は「人間味あふれる関係」を築くことの重要性を熟知していたのである。0か100かの状況が要請される社会にあって、どちらでも良いような曖昧な立場にいかに自身をしつらえることができるか。それが、人間を金銭的および倫理的に搾取されざるを得ない社会をサバイブする知恵なのだ。漂泊を至上命題とする現代社会のテーマは、いかに既成事実を作って生き抜くかである。そのようなことを、俊恵の存在から読み取れる。
 それを踏まえて、もう一段階考えてみる。それは、既存の社会に属さない個人が社会の虚を突くことを先鋭化させれば、テロリズムにつながるかもしれないということだ。国家樹立を既成事実化しつつあるイスラム国のように。まだら模様のように分散し、時に市民生活の中に潜みながらゲリラ的にテロ行為を働く彼らは、まさにアンダーグランド化して不透明な存在だ。撲滅しようにももぐらたたきのように埒が明かないところも、漂泊しきれなさという意味でまさに現代的と言えよう。もちろん、決してテロを許容するわけではない。ただここで指摘しておきたいのは、9.11以降の社会、とりわけ近年ますます国際問題化するテロ組織の犯行を許してしまうのは、もしかしたら我々の社会体制が自閉して硬直化することに比例しているのかもしれないということだ。芽衣子と清水が最終的に折り合えなかった隙を俊恵のように。テロリズムの台頭とその対処の問題は、我々が生きる社会を見つめ直すことを要請している。この舞台はそこまでの射程を持った作品なのである。

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西部邁

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