ものに潜む陰

ある人間の勇気ある跳躍!!そこにシビれる憧れるゥ!!

少し気の利いた百貨店や雑貨店に行きますと同じコップでもいわゆる「ブランド物」や「作家物」といったものもあります。わかり易い例ですので今度はこれについて考えましょう。

こういうものになってきますと作る側、使う側の「趣味趣向」が入ってきます。先ほどお示ししたような単純なコップのようなものの他に、花の模様がついていたり、色硝子をかぶせて削って模様を出した切子なんてのがあったり、はたまた陶器で出来たビアマグがあったり漆塗りのがあったりします。そういうものだとより作る人の気苦労や試行錯誤が大量生産品よりもダイレクトに伝わって来るのがお分かりではないでしょうか。大量生産品ではある程度万人が使用するのに差し障りがない、また場面を選ばない形が諸事情によって選択されがちですが、個人で使用する場合や気の利いた店などで使われる、こと作家性のあるものになってきますと実生活にどれだけ芸術性をねじ込んで行けるかとか、実用性と芸術性の両立できる点はどこかということが作家の中の実体験によって言語よりも身体言語によって危ういバランス感覚を通じて実際のものとして現されていますので、ものをひとつ挟んで存在している人、この場合はコップを作った人の、指を始めとするコップを作ったその時の体の動きや、その体の動きを後押しする人格を作ったそれまでの作家自身の経験等が生み出した心の動きをコップを通して使う人がそれを感じている、使う人と作った人間が物を介してつながっていると言っていいわけです。あとはこちらのそれを読み取る、感じ取る力によって価値を見出すか、見いだせないかという問題がありそこに作り手と受け手の趣味が合う合わないということが入ってくるという風に考えます。

最近下火になってきたようにも感じますが個性個性と声高に叫んでいる風潮は、まだまだ根強くあるように思えます、まともな人間なら「個性」といったとき、あのバッグを持っていることや、誰々というミュージシャンが好きだと単純にいう人など見て「この人個性的だなー」なんて思いもしないし、本人だって心の何処かで「私はこういうものにしがみついているふりでもしないと自分は何なんだという自分が発する問に答えられなくなってしまうから、ある程度記号的なものにしがみつくことで気持ちにペンキを塗って見えないようにしてまーす」などと考えているはずです(と、思いたい)。
陶芸でも何でも例えば、「よし!俺イカすコップ作ろー」とある人が勇んで制作を始めたとしても、今までの自分の周りでは「コップ作ろー」なんていう人は「変わってるなー」なんて言われたりしてそれだけで言われた方は「オホホ」てなもんですが、いざコップづくりの場に行けば、コップ作りしてる人ばっかりに出会うわけです。そして大体自分がぼんやり考えていたコップのデザインなんてほとんどすでに誰かがやっているか、実用性に向かないもので、作りにくく売れにくいものであったりするのです。その人に虚栄心ばかりで根性がなければ「俺のしたいことじゃないんだよね」なんて言って今度は耳かき職人かドアノブ職人を目指すなんて友達にこぼしだすのでしょうが、そういう人は置いといて、根性ある肚の座った人がぶち当たるのは、すでに考えられ形となっているものと、それに対し考え捨てられ、形とならなかったものが影となって作り上げてきた伝統でしょう。しかも伝統にはおそらく一生ぶち当たっては砕け、またぶち当たっては砕けして磨かれて玉となるか、砕け散るか、摩耗していくか。いろいろな結果はあるでしょう。伝統の含む膨大な“先例”に自己の考えを問うてみることによってその考えを鍛え上げてこれをまた実践に生かしていく。これがないとものの質は上がってきません。
良い文章など、俗に「よく練られている」と表現しますがその「練られている」のは伝統が指し示す価値観によって、どこかで伝統と協力するある個人の創造力が「練られている」ということにほかなりません。これを避けている個人によって生み出されたものはどこか薄っぺらく、何年か経つとなんでこんなもの買ってしまったんだろうなあと思ったり、すぐ飽きてしまって引っ越しの時に「これはもういいや」と捨ててしまうようなものになりがちです。あるひとつのものと付き合える長さというのは、作り手の果敢に挑んだ伝統に含まれた先例の量がどれだけあるかということと、どこか比例するところがあるように私は考えます。人間も一緒です。どこかで自分が打ちひしがれる経験や、到底及ばないように見えるものへ挑んでいく方法を自分の中の無力感に脅かされながらも喰らいついてよじ登って行こうとしたことがないような人、実際努力をした人の力を表面的にかいつまんで失敬することしかしない人というのは顔がだらしなくホログラムのようにただ偶然現世に漂っているようにしか見えません。そういう人の言葉は他人の心を通過しこそすれ、とどまって長い間心地よい響きを与えてくれるくようなものではありません。

ここで、冒頭の私の一見バカバカしい街往きの話に戻るのですが、私が溢れすぎていると思っている物とはまさにこの伝統との対峙をあまりにもサボったもののことで、そういう軽薄なものが平気な顔して並んで迫ってきて、それを平気な顔して売っている、もしくは売らなければいけない状況にある人がたくさんいることに私は苛立ちを覚えずには居れずにいるのです。しかしそのどこを見てもいたたまれないような風景の中でヘットヘトになっていても、伝統に喰らいつき打ちひしがれながらもより良い物を作ろうとしている人たちの努力や誇り、まさに練られた創造性に出会うとそれまでの疲れがジェット気流でブワーーーーー!!!っと吹き飛ばされるような瑞々しい気分になるのです。先ほど趣味と簡単に申し上げましたが、あるひとつのものを作る。この形に決めるということは他のあらゆる選択肢を、一旦その時ばかりはすっかり捨てるということです。例えば、作家としてコップ作りを生業にするということは、サラリーマン的な定時収入を捨てることであったり、収入の夥多によっては家族構成にもどこか制限が出てくるでしょうし、その他のなんとなくしてみたいことを諦め捨てるといった決断が為されているのです。「このコップが、どこかの誰かの生活に花を添えないだろうか」という微かな願いを暗中の一点の灯火とした作り手の孤独な戦いの証左として、あるコップは成っているのです。もちろん作家の心の中にも自己顕示欲や効用感が時折顔をのぞかせることもあるかもしれませんが、そういうものに乗っ取られればいつかは挫折することでしょう。長くは続きません。あるコップは最後には「花を添えたい」という気持ちによって作られているに違いないのです。酒場の大量生産品のコップがかすみ草だとすれば作家のコップは土作りから気を配った薔薇だったり百合だったりします。その膨大な考えた時間の蓄積の匂いを私自身が幸いにも受け取れた時、救われた気分になるのです。それを味わいたいがために疲れるのを承知で、なおかつあまり過度な期待をせず街をぶらつくのです。

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西部邁

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コメント

    • ろっく
    • 2014年 7月 09日

    >伝統とどれだけ対峙しているか、創造性を伝統という力によってどれだけ練っているかということです

    作りてと受けてとの付き合いの中に、こうした伝統に対する意識というか敬意というか、
    そういうものが、もっと普段の生活のなかにある社会が、本当の成熟した社会ではないだろうかと思いました。

    • 牧之瀬
    • 2014年 7月 25日

    ろっくさんコメントありがとうございます。

    作るという行為と作ったものを受けるという行為、この二つには勿論大きな差はありますが、受け取る側にあっても、例えばヤカンにしましょう、「ヤカン、それは湯を沸かすもの当たり前じゃん」という認識だけであるのと、「使ってるうちに段々味出てきたなあ」「ヤカンの顔、真似してみようか」「取っ手食う着けた方がいいと思いついたやつ、賢いなあ」なんて思ったりする感覚もあるのと、私はどちらかと言うと、ヤカンが発端になっていろいろ考え始める姿勢の方が、好きなんです。
    毎日「伝統とは!」と歴史書や民族史なんかを見て順序立てて整理して考えるのは一見近いようで本質と遠ざかって行きはしないものの、あるものがない状態ではいつまでも本質に触れないものではないかと思います。そのあるものとは、ある種の直感です。
    プルーストの『失われた時を求めて』で主人公が石畳に蹴つまづいたときに、一瞬にして昔の記憶が頭の中を怒濤のように駆け巡るあの瞬間のような、理性によって区分けされれば別のもの、関係のないものとして捨て置かれる「雑多な」という汚名を着せられる、まぎれもない自分の体験の断片があるもの「ヤカン」を扇の要のような役割とし瞬く間につなぎ合わせてしまうあの直感です。

    私の苦手な環境は、「それは今関係ない」と自分たちをある部分として特化させてしまって顧みない、そういうことに他なりません。

    ろっくさんの仰るようにある者とまた別の者との関係に於いて豊穣な感覚のやり取りが行われる世の中というのは、とても豊かなものだと私も感じております。また人間は、そのようなやり取りを実はやっているにも関わらず、どこかあるやましさが、それを見えているにも関わらず見ないふりさせていると考えています。

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