ユネスコ記憶遺産とは精神のグローバリズムである
- 2015/10/29
- 文化, 歴史
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しかしここではこのデタラメ自体を取り上げて憤りを表明しようというのではありません(もちろん私は憤っていますが)。記憶遺産という試みそのものをやめるべきだと主張したいのです。
記憶遺産は、1997年から2年ごとに登録事業が始められ、世界遺産、無形文化遺産とともにユネスコの三大遺産事業と呼ばれていますが、そもそもこれは、自然や建造物や芸術作品のように今もなお目に見え、手で触れられる物的な対象とは違って、すでに過ぎ去った「歴史事実」そのものを確定しようという試みです。日本語流に言えば、この試みは、「もの」と「こと」の区別を無視しているのです。「もの」はいまここにあれば万人がその存在を認めることができますが、「こと」は複雑で、見地によっていくらでも異なり、たくさんの証言者が必要であり、また刻々とその様相が変化するので、どんな小さなものでも確定のためには詮議が必要です。ちなみに欧米語にはこの区別がありません。
もちろんその事実の確定の手続きのために、残されたさまざまな資料が提出されて検証にかけられるわけですが、この「資料」なるものは、このたびの「南京大虐殺文書」のように、いくらでもあとからの改竄や捏造が可能です。また政治的利用の意図や悪意がなくても、伝聞や推定が無数に入り込み、無意識の改変が行われてしまいます。
現に西洋思想の根幹をなす「新約聖書」にしても、イエスの言行録(四福音書)については、その成立時点ですでに多くの異聞、偽書の疑い、それぞれの編者の意図に添ったフィクション仕立て、失われた資料の混入などが存在したことは、今日周知の事実です。
いわゆる「客観的歴史事実」なるものは、もともと時の権威者が集合して大騒ぎで詮議しながら、あれこれ取捨選択して定めていくものなのであって、何か初めから「これこそ真実である」と決まっているわけではありません。「事実」の確定には、それを「事実」と認める現場立会人と利害関係者と権威ある審判者とが絶対に必要だからです。特に政治的な意図がない場合でも、歴史実証主義者の間で論争が絶えず、権威の移ろいによって旧説がひっくり返ってしまう例はごまんとあります。芥川龍之介の『藪の中』は、人の世のこのようなありさまをシニカルにとらえた作品ですね。
さて中共政府や韓国政府のような反日組織が、この無理な試みを自国の国益のために利用するのは当然と言えば当然です。「利用するな」というほうが無理筋でしょう。では、出遅れた日本が、これに対抗してこれから情報戦を旺盛に繰り広げれば、登録が抹消される可能性があるでしょうか。私の判断では、今となっては、それはまず無理です。
なぜなら、まず第一に、先述のとおり、国連とは戦勝国連合であり、戦勝国にとって都合のよい「物語」はたやすく受け入れるけれども、都合の悪い事実はなかったことにしようとするからです。
これはたとえば、ニュルンベルク裁判や東京裁判をやった主役であるアメリカが、「人道に対する罪(C級戦犯)」を設定しておきながら、自らが犯した民間人の大量殺戮である東京大空襲や原爆投下に対しては、この罪に該当するか否かを一顧だにしていないこと(ちなみに東京裁判では日本人にはこの罪が適用されませんでしたが、適用するとただちに自分たちに跳ね返るからです)、またいわゆる「従軍慰安婦問題」に関して、あの朝日新聞ですら不十分ながら誤報を認めたのに、クマラスワミ報告やマグロウヒル社の歴史教科書が一向に変更されないことなどを見てもわかります。
第二に、ユネスコの主要幹部ポストには中国人と韓国人がいますが、日本人はゼロ。記憶遺産事業では、中韓はアジア太平洋地域委員会レベルで活発に活動しているのに、日本の存在は確認できないそうです。(産経新聞10月14日付)
第三に、記憶遺産の登録の可否を事実上決定する国際諮問委員会は、わずか14名しかいません。バイアスのかかった特定の地域委員会がここに上程すれば、世界史の重要事項が確定されてしまうわけです。たったこれだけの人数で、資料の完全性、真正性を厳密かつ客観的に判断することなどできるでしょうか。その14名の人がみずから動いて徹底的な裏取りや検証活動をするとでもいうのでしょうか。ある地域で起きた一犯罪事実ですら、警察の容疑確定、逮捕、書類送検、検察の起訴決定、三審制による法廷での審議という長い長いプロセスを経なければ確定されないのに。
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