ユネスコ記憶遺産とは精神のグローバリズムである
- 2015/10/29
- 文化, 歴史
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このように言ったからといって、抗議活動や撤回要求活動をあきらめろと言っているのではありません。この問題については、私自身もある組織を通して、ほんのささやかではありますが抗議に名を連ねたことがあります。記憶遺産という事業がともかくも「権威ある」国際機関の名において行われてしまっている以上、これからも日本は精力的に抗議活動と撤回要求活動を続けていく必要があるでしょう。
ただここで私が強調したいのは、要するに、ユネスコ記憶遺産なる事業が、その組織体質や手続きにおいて、いかにずさんなものでしかないかということです。問題は、そんなずさんな事業が、ただ国際連合の一機関という一見国家を超越した権威の装いを保つだけで、各国が抱懐するそれぞれの歴史よりも、何やらより普遍的で上位の歴史認識を保証するかのような幻想を与えてしまうという事実なのです。
私はこのことにこそ、まず抗うべきであると考えます。こんなものに権威など認めてはならないのです。ちょうどノーベル平和賞やそのカリカチュアとしての孔子平和賞などが政治的な意味しか持っていないのと同じように。
こういう権威をいったん認めてしまうと、そこに受け入れられようとする卑屈で野蛮な激しい競争が必ず発生します。競争が政治性を帯びることはもとより避けられないでしょう。現に今回日本が申請して登録が認められた「シベリア抑留資料」については、事実であるにもかかわらず、ロシアがさっそく文句を付けてきました。
このたび同時に中国が申請した「従軍慰安婦資料」は却下されましたが、再来年には韓国がさらにこれをしつこく申請するに決まっています。そうしてどの国も認められれば鬼の首でも取ったように喜ぶでしょう。この喜びをもたらすのは、「国際事業」という名の権威性ですが、そんな欺瞞的な権威に尻尾を振る必要などどこにもない。だから、この問題を本当に解決に導くためには、このインチキ事業そのものの廃止を求めていく以外にないのです。
この事業がインチキ事業であるのは、ただ単に組織体質や選定基準がずさんであるからだけではありません。深く考えていけば、ここには世界秩序のあり方にかかわるもっと根本的な問題が隠されていることがわかります。
現在の世界史的段階においては、歴史を共有できる範囲は、どんなに大きく見積もっても自生的な一民族、一宗教、一国家を超えることはできません。記憶遺産のような超国家的事業を支える理念は、この事実をけっして理解しようとしないのです。ちょうどヒト、モノ、カネの国境を超えた移動・交流をよいことと考える経済的なグローバリズムが、国家主権をむしばむ結果しかもたらさないのと同じように、国境を超えて歴史を共有することを目論むこの種の空想的な理念は、いわば長きにわたって培われてきた伝統的な共同体のエートスを破壊する「精神のグローバリズム」と言えるでしょう。私たちは、経済的なグローバリズムの成立によって、拡大された国際関係という空間的な観念が、ともすれば国家よりも大きな価値を持つのかもしれないという錯覚に陥っているのです。しかし人類の歩みがそんな地点にまでとうてい達しえていないことは、昨今のEUの惨状、中東の混乱、覇権の消滅による大国関係のにらみ合い、小国独立の運動によるさらなる多極化などの現状を一瞥するだけで明らかです。国際協調機関なるものは、これらをどれ一つとして解決しえていません。
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