教育の生産性とは何か?
その考え方を援用した場合、教育における生産性を10倍にするという条件も含まれなければなりません。さて、ここで、「教育における生産性」というのを考えてみましょう。
単純に考えると、授業を受けている生徒の学力をいかに効率良く伸ばすことができるかということが生産性の定義になりそうです。
しかし、「ゆとり教育」では時間数だけでなく、学年ごとに習熟すべき項目もどんどんと削られていきました。
そういう動きを見ると、「成績を効率良く伸ばす」という目的からは学校教育は完全に離れてしまいました。そこを補填する存在とすれば、皆さんの頭によぎるのは学習塾業界ではないでしょうか。
しかし、文部科学省はそれこそ、90年代に入るまで、学習塾を敵視していました。
ゆとり教育と同時に学習塾に歩み寄った教育界
1987年に文部省事務次官名義で通達された学校における学習指導の充実等についてでは学習塾に対して以下のように述べています。
学校教育関係者としては学習塾通いの問題を真剣に受け止め、児童生徒の心身ともに健全な発達を図るとともに、保護者の公教育に対する信頼を確保するという観点から、この問題に積極的に取り組むことが必要である。特に、過度の学習塾通いは児童生徒の健全育成や学校の学習指導等に大きな影響を及ぼしており、その弊害の是正が緊要の課題となっている。
さらに、学校での学習機能について、以下のような文言まで含まれています。
学校は、必要があると判断される場合には、始業前、放課後等における個人指導や補習、適切な課題を与えることによる家庭学習の指導などを含め、補充指導の実施に積極的に取り組むことが望まれる。
しかし、この通達から10年ほど経った1997年には生涯学習審議会への文部省からの諮問は以下のようになっています。
特に、多くの子どもたちが通う学習塾は、過度の学習塾通いによる弊害が指摘される一方、地域における子どもたちの多様な学習活動を支える面でも無視できない存在となっており、その役割、在り方などについても、正面から議論していただきたい。
80年代後半には「学習塾何のその」と思っていた学校も、90年代を通じて、学習塾を無視できない状況になっていったわけです。
二枚舌と化した教育現場
そういう意味で、「ゆとり」を作り出すことが内包している「生産性の向上」もとい「教育の効率化」は学習塾業界に委ねられていったといえます。当時の小学生や中学生であれば、優秀であればあるほど、公立教育の二枚舌が見えていったと言えるでしょう。
日中は学校で授業を受けながらも、本当に必要な授業は放課後の学習塾。こういう言い方は失礼かもしれませんが、学校は社交の場であり、極端に言えば保護者の義務を果たすための時間なわけです。
それは、教育の二枚舌であり、大人、ひいては社会の二枚舌だったといえるでしょう。
この問題の真の原因は何か。社会の変化に基づいて教育を変えていくこと自体には何の問題もありませんし、逆に積極的に行っていくべきです。真の原因は明治維新以降、身分社会が崩壊した後も学歴によってエリート層が構成されていく仕組み、さらにはその仕組みを利用して、「高校全入」などの運動の声を受けておきながら、早い段階から「学校教育の現場」と文部省・ひいては霞ヶ関が調整を行って来なかったことといえます。
Report.6では、その「学校教育の現場」と霞ヶ関が90年代で最もトラブルになったであろう、「国旗・国歌法」から見えてくる二枚舌について掲載いたします。
※第6回「フラッシュバック 90s【Report.6】
価値中立的な教育など存在しない」はコチラ
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