先の文章の中で三島由紀夫は、通例として使われる「行動力」という言葉の意味について疑問を呈しているのですが、これと似たような問題提起を先崎さんも、藤井聡さんとの対談の中で行っています。
先崎 僕なんか、ある有名な銀行に務めた人にね、先崎君IT革命が次の時代には来るよ!!って学生の時に言われたんですけどね、こういう奴がね世間では頭が良いって言われてるんですよ。
本当に、頭が良いのは、IT革命が次に来て、次に何が来る?って言ってるところから一回こぼれ落ちてですね、なんでITなんてものに僕たちは翻弄されてるのか?っていうふうにこぼれ落ちる瞬間がなければ、僕たちはとてもじゃないけど・・・まあ、それは辛いんですよ。今日集まってる人たちはそういう事が分かってるから集まってるけど、今日また散らばって帰ればですね、また怒涛のように人々が歩いてるはずですよ。
それでおそらく、日々仕事をしながら、ああ、自分たちってのはやっぱり変わった人間で、エイエイオー!!って言われたら、エイエイオー!!って、なんか体育会系で叫んでる奴の方が出世していくなーって思いながらですね。ああ、俺ってなんか生きてるの向いてねーんじゃねーかなーって、ああ俺って孤独だなーとか思ってる時に、ちょっとこの本を読んで(笑)
ああ、おんなじ人間もいて言葉書いてんじゃんみたいなことですよ。
(出典:「しなやかなナショナリズム」をつくる 〜大衆社会の病理とこれからの共同体論〜 藤井 聡× 先崎 彰容@ジュンク堂池袋本店)
先ほどの文章の中で三島由紀夫は「行動力」という言葉の意味について問うているのですが、先崎さんは「頭が良い」という言葉の意味について問うています。どちらにも共通しているのは、おそらく現代の金銭至上主義的な価値観に侵された文脈の中における言葉の意味付け、あるいは解釈に対する疑問であり、またそのような言葉の解釈や、価値観の転換という目的意識でしょう。
両者共に、抜け目のない、利にさとい人間に対する無条件の賞賛に対して強い嫌悪感を抱いているのです。先崎さんは、先の対談の中で、いわゆるビジネスの流行や、金銭的な利益に敏感な金銭至上主義的な価値観によって、ある種の素朴な人間性が失われるのではないか?という問題について危惧し、また三島由紀夫は、かの有名な
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。
というメッセージにおいて、金銭至上主義的な価値観が日本国家のアイデンティティーを溶解させ、文化的な深みを失った非常に無機的な国家へと変貌してしまうのではないか?という危惧を表明しています。
では、彼らの考える価値観の転換とは具体的にどのような転換なのでしょうか、もちろん、簡単に一言で説明できるとは思いませんが、一つには、現代の金銭や貨幣、ビジネスが主であり、人間や社会がそのようなビジネスや金銭の問題に振り回される従属的な立場に追いやられているような関係からの転換、つまり、金銭とビジネスが主で、人間や社会、国家が従である価値観から、逆に人間や、社会、国家が主であり、金銭やビジネスが従となる価値観、あるいは、主である人間や社会にとって、それらの利益に奉仕するカタチで金銭やビジネスの地位が位置づけられるような関係性への転換こそが望まれているのではないでしょうか?
もちろん、これは、単に思想や、ちょっとした考え方の転換ですぐにどうにか出来るような問題ではありません。ある意味で、現在の通説的な観念を完全に覆す転換であり、同時に、これらの価値観のベースになっている社会システムの変革を必ず必要とする大事業であることも確かです。しかし、また、これらの価値観の転換、悪しき金銭市場主義、ビジネス文明からの脱却は、現代の社会や経済の抱える問題の根本的な原因に対するアプローチと成りうる試みであり、多大な時間と労力をかけるだけの価値を持った一大プロジェクトとなりうるのではないでしょうか?
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