愛国心は必要か(前編)

愛国心について(3)

 「愛国心」についての考察をもう少し続ける。

 素朴な祖国愛とか、愛郷心といったものはもちろんあり得る。しかしその場合に言われている「祖国」とか「郷」というのは、生まれ育った地域の自然と地続きになった風土であり環境である。それはこうした心情を個人に抱かせるに足るだけの具体的なイメージをはじめから具えている。そうしてそのイメージが個人の身体のなかに記憶として鮮やかに生きているのである。パトリオットとか、社稷(しゃしょく)といった概念が、この愛の対象としてふさわしいだろう。

 たとえば戦場で命をかける場面において、多くの兵士たちがふるさとの山や川をわれから思い出し、それによって死に直面している自分の心境を彩ることがある。そのとき彼の内面は、自分のこれからの行動の意味を感性的な次元での共同観念によって満たそうとするのである。

 だが残念ながら、これらの愛の対象としての共同観念は、近代国家の思想的骨格をなしているナショナリズムには、順接ではつながらない。それどころか、法的合理主義と政治的機能主義を統治のための看板に掲げる近代ナショナリズムは、民衆のパトリオティズム的心情やその象徴的な表現行動を裏切ることがあるし、事実、日本の近代史においてもしばしば裏切ってきた。神風連の乱、西南戦争、大本教弾圧、二・二六事件など。

 またもちろん日本はとても生活しやすいから好きだとか、私は日本の伝統・文化・慣習を愛するといった言い方は大いに成り立つ。私自身もそういう感覚を持っている。しかしこの場合も、近代国家としての日本に対する「愛国心」という概念にそのまま接続するわけではない。というのも、「日本国」という虚構された運動の全体は、私たちの生活感覚からは格段に抽象度の高いレベルに置かれており、それは日ごろ国家のことなどまるで意識していない膨大な人々をもそのうちに包摂しているからである。

愛国心について(4)

 ある人が日本国民であることの要件は、本人がそのことを何らかの形で自覚しており、日本の法に服することを承認しており、かつ日本国籍を有するということだけであって、彼は日本人でありながら、日本の生活を忌避することもできるし、日本の伝統・文化・慣習を愛さないこともできる。つまり、いわゆる「愛国心」を持っていなくても彼はじゅうぶんに日本人なのである。逆に外国籍を持つ人であっても、日本の生活が好きであったり、日本の伝統・文化・慣習を愛する人はいくらでもいる。

 私がここで何を言いたいのかというと、自分の内面に聞いてみて、家族や恋人や友人やペットを愛するのと同じように、これほど複雑な政体と社会構成をもつ「国家(近代国家)」なる抽象態を本当に愛していると断言できる人などいないのではないかということである。

 もちろん、普通の人に「あなたは愛国心を持っていますか」と聞けば、多くの人が「持っている」「まあ持っている」と答えるだろう。しかしそう答えるのは、問いの形式に拘束されている部分が大きい。問いの存在しないところでは、「この日本国」を愛するという感情を日常的・かつ自覚的に抱いている人は、残念ながらそう多くないはずだ。自分たちの明日の生活をどうするかや、いかに幸せな人生を送るかが大半の人たちの共通した関心事であり、経済がそこそこ豊かで安定している限り、国家そのものを意識する人がそもそも少ないからである。そこにさらに、戦後半世紀にわたる反日・反国家イデオロギーの注入が加わる。国外からの脅威が現実的なものとなり、しかもそれが一般国民の生活空間にじかな実感として伝わってこない限り、潜在的な「愛国心」は行動につながるものとしては顕在化しないだろう。

愛国心について(5)

 かつて国家への「恋闕(れんけつ)」の情に己れを託して行動した思想家や文学者がいたが、それは多分に主観的な自己充足の回路に終わる観念であった。またそれは、近代国家が自身を直接的な「愛(エロス)」の対象として容易には受け入れがたい複雑で冷ややかな構造を持つからこそ、成就不可能な観念の恋として意味を持つという逆説の上に成立していたのである。近代国家はそうした情をまともに受け止めて吸収するだけの「心の用意」を具えていない。

 しかしだからといって、国の成り行きを大切に思う精神とか、国のために力の限りを尽くす精神といったものが存在しないわけではないし、それらが国家にとって、またその国家に実存を深く規定されている私たち一人一人にとって重要な意義をもたないと言っているのではない。ただ私は、こうした精神を「愛国心」という粗雑で曖昧な感情用語で言い括らないほうがいいと主張しているのである。これらの精神は、ただ感情のみによって基礎づけられるのではなく、あくまで理性的な意志の参加を俟って初めてその国家的人倫としての要件が満たされるべきものなのである。

 先に、国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つと述べた。誤解を招かないために一言しておくと、この場合の「心情」という言葉は、いわゆる「愛国心」のことではない。いま述べたように、「愛国心」のようなものを、多くの人々は日常生活のなかでいつも意識的に保持しているわけではない(国際スポーツ大会のような衛生無害な場合を除く)。それは、国家が危機に直面した時、すなわちこのままではその国の住民自身の平時の生活が脅かされるという自覚が高まった時に初めて目覚めさせられ発動する。

 これに対して国家の仕組み(国体そのもの)を不断に支えるものとしての共通心情とは、私たちは同じ何国人であるから他国人よりもずっと深くわかり合えるという単なる「了解の感覚」である。これは格別の昂揚感情として示されるのではなく、日々の活動、交流、言語行為、経済行為、他国人との交渉などにおいて不断に、ごく普通に作用することによって、冷静なナショナリズムの基盤をなしているのである。

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西部邁

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