『夢幻典』[捌式] 無常論
- 2017/1/17
- 思想, 歴史
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世界は、はたして有るのだろうか。
この問いに肯定的に答えられたとしても、
世界は有り続けるのかという問いに対しては、
別種の難しさが生じてしまうだろう。
その難しさゆえに、世界は続くとも、続かないとも言えない。
単に有ることからは、
それが有り続けるとも、有り続けることはできないとも、言うことができない。
なぜなら、すべては移り変わってしまうのだから。
変わらないことを欲しても、世界は意のままにならない。
縁起によってすべてが生じ、そして滅してしまう。
その理は、世界そのものについても及んでしまうだろう。
人生や世の中は、無常だと思われる。
常なることを願うがゆえに、そうでない有限性が問題となる。
そこでは、この世界のあり方が問われることになる。
創造主が世界を創ったと言うことはできない。
なぜなら、現に無が有ることが、世界を形作っているのだから。
語ることができるのは、そこまでであり、創造主を語ることは越権行為である。
創造主の想像はたやすい。
しかし、そこに越権があるが故に、安易な思考へと進むことはできない。
時を止めることはできない。
時の停止を認識することができないのだから。
認識できてしまえば、それは原理的に時の停止ではありえないのだから。
すべては関係によって紡がれる。
すべてが因果によって生じ、滅する。
時間の流れにおいて、すべてが移り変わっていく。
森羅万象において、存在の中心に意識されているもの。
我は有り、我は無し。
生の始めに暗く、死の終わりに冥し。
諸行無常。
すべては常ならず移り変わる。
ここにおいて、儚さが心に届いて無常観が現れる。
厳しい無常の世界において、優しさと美しさが生まれる。
たとえ、すべてが滅び行くのだとしても。
草木国土悉皆成仏。
そこでは、このような考えも浮かぶのだろう。
それは飛躍であり、保証はないのだとしても。
ここにおいて、因果関係の論理に亀裂が走る。
人間性を抜きにした論理は、人間によって打ち破られる。
打ち破られることが、可能であるのだから。
人間に可能なことは、ある種の人間によって為され得る。
だから、そのような物語が紡がれ得る。
たとえ、この世が夢幻(ゆめまぼろし)だとしても。
世の中は夢か現(うつつ)か、
現(うつつ)とも夢とも知らず、
有りて無ければ。
たとえこの世が、夢幻(ゆめまぼろし)なのだとしても。
夢に蝶となる。
ゆえに、現実に蝶となる。
そして、蝶となり羽ばたく。
今という永遠が現実を形作る。
ゆえに夢は現実に、現実は夢と成る。
奇跡的に永く続いたある一つの文明において、
不思議な言葉遊びが生まれた。
無常を詠う遊び心を、ここで示そう。
色は匂へど 散りぬるを (諸行無常)
我が世誰ぞ 常ならむ (是生滅法)
有為の奥山 今日越えて (生滅々已)
浅き夢見じ 酔ひもせず (寂滅為楽)
一つの儚い幻想が示され、そしてやがて終わるだろう。
儚く無常な世の中において、
それでも護るべきものがあった。
だから、歌が詠われたのであろう。
それはどこかもの悲しく、
切なく、
胸を締め付ける。
この世界の終わりを以て、
この世界が護るべきものであることを示そう。
思想の究極において、生命の手段化が行われる。
問いが問われる。
偉大なる物語とは何か?
答える声が微かに聞こえるだろう。
永遠でないものを、
永遠であれと希(こいねが)う、
永遠でない者たちの歌。
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