2004年に、永井豪原作の漫画「デビルマン」は東映配給、那須博之監督で映画化されました。当時私が読んでいた洋泉社「映画秘宝」なる雑誌では、「俺達のデビルマンになんてことしてくれたんだ!!」「那須には天罰が下る!!」など激しい書き方で、その年のワースト映画に選出したり、それをでかでかと表紙に大書きしたりそれはすごい貶しようでした。私自身はというと当時CGを極端に嫌悪しておりましてそういう評価があることもあってか、ついぞ実際に観ることはなくひどい映画だという声をよく聞くなあというくらいの認識でついこの間までいたのですが、借りるつもりの映画が馴染みのレンタル屋に置いておらず何気なしに「ああ、あるな」と見つけたので話の種に観る程度で借りて観てみたのですが、大方の評判を覆す、少なくとも「映画秘宝」による批評では足りないと感じたため筆を執りました。
確かに笑える演技の質
不動明役、飛鳥了役の兄弟の演技が大根だとか感情がこもってないとか棒読みだとか、そういう批評(難癖)が2004年当時あったように、私が観てもまあそう言われてもしょうがないのかなと思わせるような抑揚の少ない声の出し方をしていたり、手振りが取ってつけたようであったりという様子は確かにありました。私の好きな役者は演技に深みのある人が多く、そういう人に比べればまだまだ青いという言い方は可能かもしれません。また同作品でも宇崎竜童阿木燿子夫妻などベテランと呼ばれる方も共演に名前を連ねており、かえって主役二人の演技の青さがが目立つ印象はありました。けれど原作ストーリーの大筋である大衆心理に突き動かされる人間集団が、匿名性を蓑に平気で、というより本人は理性を持っていると信じて罪を犯していき、スケープゴートを拵えて徹底的に断罪、追いやり終には抹殺していくという人間集団の悲しさを描くという点においては原作と変わらない部分があり、むしろ映画的には成功のように思えます。
一体なぜ、映画「DEVILMAN」は駄作と言われたのか
「DEVILMAN」の公開された前後二三年というのは、漫画・アニメ原作の実写化映画の乱れ打ちのような時期でした。宇多田ヒカルの元ご主人紀里谷氏による「CASSHERN」や、「キューティーハニー」、羽生生純氏のコミックを松尾スズキ氏が撮った「恋の門」、「鉄人28号」や森田よしのり原作の「ROOKIES」などそれ以降も今に至るまで漫画・アニメ原作の映画というのは枚挙に暇がありません。それらは往々にして確かに急ごしらえの感があったことは確かです。原作漫画をほとんど読んだことがない私でさえ原作漫画を基準とすればキャスティングにミスマッチを感じる場合も多く、当時の人気俳優を無理やり当てており、原作漫画の雰囲気よりも、俳優の集客力を当て込んで選ばれているのではないかと感じられることも多々あります。今でも小栗旬がいろんな漫画の主人公をやっていますが…しかし考えてみると、流行りというのはすごいなとつくづく思い知らされるのですが、あの頃あんなにもてはやされていた、つまり制作側の誰かが集客力を持つと思ってキャスティングしている俳優も、映画公開が終わりDVDが発売され、新作から準新作、旧作の棚に移りパッケージが色褪せる頃になるとだんだん映画製作時のはやりの状況とは違ってきます。信じられないことのようですが、今大流行の役者もいずれはどこの誰とはわからないような人になっていきます。こんなことを言っては怒られますが、日活のドル箱スターだった赤木圭一郎や、怪奇大作戦にも出ていた怪優岸田森、私の大好きな昭和の大敵役成田三樹夫、私の親父に似ている不世出の剣戟スター大河内傳次郎のことなんてそりゃあ当時を知ってる人や好事家たちは当たり前に知っている名前でしょうが、その辺に歩いている若者を10人くらい捕まえて尋ねても「誰っすか?ていうかあんた誰っすか?警察呼びますよマジで」てな位のもので、時代の波に綺麗さっぱり押し流されていくものです。何が言いたいかと申しますと、他の印象がないような、「こいつ誰だろうな」というくらいの作品を観る人が作品に登場するある俳優に対して余計な知識、イメージを持ち込まないで済むような役者を起用して、ストーリーをしっかり魅せるということは重要な配慮だと感じていて、流行りの役者が配役されることというのは公開時はやはりそれなりに客を入れる計算がなければいけないし、作品としても長期的な視野に立てばそんなに悪いことではないんじゃないかなと思うんです。「DEVILMAN」にあっても、あの永井豪の暑苦しい絵柄とは似ても似つかない若いアイドル兄弟がキャスティングされたことというのはかえって、原作で暑苦しさのために見えづらくなっていたストーリーをスッキリ見せる効果があったんじゃないか、実は慧眼だったんじゃないかとさえ思ってしまいます。漫画原作の映画作品はだいたい制作が始まる頃から「おいおい大丈夫かよ」などと熱心なファンの声が上がります。熱心なファンというのはこれまた厄介で、漫画が自分の思うとおりに映像化されてほしいものですから、きっとどう映像化されても不平不満があるのです。全員ではないでしょうが過半数の大きな声としてはこれが占め、またその委ね易さから多くの人がこの意見に加わっていくのだと思います。漫画なんて絵ですから、ある人格を漫画化するときどうしても人間性の一部を特化させて登場人物をこしらえなければなりません。その漫画の登場人物を生身の人間である役者が演じようとするとき、漫画の登場人物の様子に加えて何らかの余計な情報が付随するのは当たり前のことです。叩いてもそれを読むほうが知らない作品だといまいちセンセーショナルの度合いに欠ける、したがって記事になりにくい。自分の知り合いの作ったものや、商品として取り扱っているものの中にだってひどい映画はいろいろあったに違いないのにも関わらず、東映の大御所である那須博之監督ならケチョンケチョンに言っていいんじゃないかなとかいう心理がどこか働いていたとみて不自然ではないでしょう。私はこのような自称批評家気取りの寄り合いが大嫌いです。「みんながこういっているからこう言っちゃおうかな」という人間の言説振る舞いを見ていると、歌手友川かずきの「そうだ、たこ八郎がいた」の歌詞の一節を思い出さずに居れません
『何が死だ 生でもないくせに 気違いになる時から 生きるのぞ』
映画を批評するときに映画を作ったことがない人間が批評してはならないとまでは言いませんが、少しぐらい気取って「みんなと違う意見を言ってやろう」とか、「俺はこの映画を、絶対にどこか褒めてやる」という気構えぐらい持ったってバチは当たらないし、死にゃあしません。奇っ怪な服を着て個性個性と浮かれるなら大多数に甘えるなんてみっともないことしないでそれぐらいのことをしてみろよと言いたくなるのです。自分のコミュニティの中でいい顔するのが個性なのか。そこですらアウトサイダーを気取れもしない人間の主張ひいてはその人生なんて、時代の荒波の前にあってはケシカスのようなものです。その実そういう人間の性質は非常に質の低い快楽主義者のお面にすぎないでしょう。私は言いたい。皆さん!アウトサイダーを気取ってください!そして本質的にそうなれば、それを見つけて価値を感じる人と遅かれ早かれ知り合ってしまうことになると思います。自分の中から出てくるかすかな声を周囲の声でかき消すことで迎合して小さくまとまっている人間なんかどうでもいいんですよ。自分の中にあるこの声は何なんだと丁寧に付き合っていけば、あなたの五感、六感はこれまで以上に躍動することでしょう。そうやって生きて欲しい。
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