「フリードマンは悪いけどハイエクは悪くない」という議論について
- 2013/12/21
- 歴史
- ハイエク, ミルトン・フリードマン
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はじめに
本論文は、ある雑誌に載せていただくために、リーマンショック後の2009年に書いたものを再編集したものです。そのときは雑誌の廃刊のため日の目を見ることはなかったのですが、今読み返してみても基本的な論理は通用すると思われるので、ここに掲載させていただくことにしました。
抑制と拘束の「最大」も「最小」も社会を不安定化させる
新自由主義と呼ばれるイデオロギーが行き着くところまで進んだとき、市場経済は大惨事に見舞われました。
新自由主義の崩壊後において、特に気になるのは保守派にみられる「フリードマンは悪いけどハイエクは悪くない」という意見です。リーマンショック後は『蟹工船』ブームなどが起き、マルクスの亡霊が復活したことへの対抗軸として、ハイエクが見直されていたという点を指摘できます。
確かにマルクス主義は、ハイエクの批判で理論的に論破されています。格差社会という現実における対応という点では共産党に見るものがありましたが、今さらマルクス主義を持ち出してもどうしようもありません。先が無い状況で無理に突き進めば、破壊をともなう破滅が待っているだけでしょう。
それとは別に、「フリードマンは悪いけどハイエクは悪くない」という意見についてはよく考えてみる必要があります。確かに、ミルトン・フリードマンとF・A・ハイエクの考え方には無視できない相違があります。
ですが、私の見解ではフリードマンの提案が受け入れられないのは当然として、ハイエクの提案も受け入れられません。フリードマンとの相違にかかわらず、ハイエクの思想を拒絶することが後々重要になってくると思われるのです。フリードマンは悪いけど、ハイエクは悪くないという議論は間違っていると思うのです。ハイエクのマルクス主義批判が正しいからといって、代わりに提示されているハイエクの提案が正しいとは限りません。
そこで、まずはハイエクの理論を見ていきましょう。
ハイエクは新自由主義の理論的支柱と見なされていますが、本人の著作を読む限りでは(古典的な)自由主義者です。
ハイエクは、〈自由を定義して抑制と拘束がないこと(『自由の条件』)〉と述べています。これが、ハイエクの自由の意味になります。
しかし、抑制や拘束をすべて無くしてしまうことなど不可能です。そのことはハイエクも十分に認識していて、〈自由主義は、もし全員ができるだけ自由であるべきだとすれば、強制力は全廃できず、個人や集団が他人に対して恣意的に強制力を揮うのを妨げるのに必要な最小限にそれを削減できるだけにすぎない(『自由主義』)〉と述べています。
そのため、〈社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない人間の状態(『自由の条件』)〉が〈自由(libertyあるいはfreedom)の状態(『同上』)〉となり、〈自由のための政策課題は強制あるいはその有害な影響を最小にすること(『同上』)〉になります。よって自由主義に対し、〈事象の秩序づけに際し、社会の自発的な力をできるだけ多く利用し、強制に訴えることをできるだけ少なくするという基本原理(『隷従への道』)〉が掲げられます。
ここでの自由は、〈われわれは自由が単にある特定の価値であるばかりでなく、大部分の道徳的価値の源泉であり、条件である(『自由の条件』)〉と位置づけられています。
以上のような意見を読むと、儒教における中庸の思想に馴染んだ日本人なら違和感を覚えることでしょう。強制を「適切」にするのではなく、「最小」にするということは中庸を外れています。中庸から外れている概念が、「価値の源泉」であるわけがありません。
なぜ、強制を「最小」にするという考え方が不適切なのでしょうか。それは、短期的には余計に思われるが長期的には有効に働くような強制に対し、「適切」では残したり限定的に停止したりするのに対し、「最小」では排除する傾向があるからです。
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