「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件
- 2016/6/20
- 社会
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その意味でオタクの王、「オタキング」である岡田さんを、映画評論家である町山さん、漫画編集者である竹熊さんが批判しているのは象徴的です。町山さんは明らかにサブカル陣営、竹熊さんはサブカルとオタクのボーダー上に位置している人であると言っていいように思えますから。
とはいえ、もう一つ基準を提示するならば、サブカルは70年代的感性、オタクは80年代以降の感性をベースにした文化である、と言ってもいいかも知れません。
町山さん、竹熊さん、岡田さんはそれぞれ62年、60年、58年と近い生まれであり、彼らの青年期である80年代に「オタク文化」が生まれ、「サブカル」との世代交代があったのだと言えます。
さて、それにしても、先に「サブカルはウエメセだ」と書きましたが、町山さんの「岡田にはロックの素養がない」発言しかり、彼らはどうにも、自分たちこそが正しい位置にいるのだ、と揺らぎない確信を抱いているように思われます。ツイッター界隈でも「マスに流されやすい」「大衆消費型のオタク」に対し、「サブカル=『兄貴世代への憧れ』。良識的大人に反抗するアウトサイダーへの賛美。」である、「その境界に、思春期の割礼があったかどうかという、モラトリアムの問題がある」といった主張をなさっていた方がいました。この方は「まんがのレコードを捨てたエピソード」を「割礼」に喩えていて、オタクは児童文化を愛する、子供のままのヤツらだ、とおっしゃりたいようです(いえ、それはその通りなのですが)。
一方的に自分たちの方が優れているのだと放言を続け、「しかし争いはなかった」とぬけぬけ言う傲慢さと鈍感さには、苦笑を禁じ得ません。
彼らの姿は、ぼくには「元・いじめられっ子が都会でそれなりに成功した折にふと現れた、高校時代のいじめっ子」に見えてしまいます。彼らはぼくたちの肩をバンバン叩いて「懐かしいなあ、昔よく遊んだよなあ、ところで羽振りよさそうだな」とこちらの身なりをじろじろと値踏みします。どうもぼくたちオタクが都会で商業的成功を得たことを、噂で聞き出したご様子です。
「サブカルvsオタクの争いはなかった」論はそんな彼らの「あれは可愛がりであり指導であり、いじめの事実はなかった」発言であると言えそうです。
さて、ここで先にご覧いただいた『愛國戰隊大日本』が意味を持ってきます。
北の大地から攻めてきた「レッドベアー団」が洗脳五ヶ年計画で日本侵略を企むのに対し、敢然と立ち向かう五人の若者、「愛國戰隊大日本」。レッドベアーが送り出してくる「ミンスク仮面」という怪人に、大日本は変身して、或いは巨大ロボ「大日本ロボ」を繰り出して対抗します。
要するに『ゴレンジャー』などの戦隊物のパロディーであり、そもそも本作の着想が「もし、右翼が戦隊作品を作ったらどうなるか」というところに端を発しています。
画質の悪い映像から想像がつくかと思いますが、本作は1982年に制作されたもの。脚本は岡田さん、また特撮、デザインを担当したのは庵野秀明さん(ナレーターを務めたのも庵野さんで、実は『風立ちぬ』に先駆けての声の出演をしているのです)。制作はダイコンフィルムですが、これは『エヴァンゲリオン』を作ったGAINAXのアマチュア時代の姿なのです。
つまり本作は、オタク界の第一人者の、若かりし頃の習作と言えるものだったわけです。いささかおふざけの過ぎるもので、あまり表には出てこない作品ですが、いずれにせよ右も左も笑い飛ばした快作には違いがありません。
当時、このようなものが出て来た背景にはやはり、学生運動後の政治に対するニヒリズムがあったことでしょう。ですが、やはり彼らの上の世代の人物たちはこうした作品を好ましく思わないらしく、当時、ソ連SFを好む当時のロートルSFクラブ・イスカーチェリから激しく論難されたと言います*1。
そう、当時のオタクには上の世代の生硬さに対する嫌悪感が、少なからずあったわけです。そうしたニヒリズムは、手放しで全面的に素晴らしいと言えるものではないかも知れませんが、それなりに時代の必然ではありました*2。当時のオタクたちは特撮ヒーロー作品を熱心に視聴しつつ、同時にヒーローたちの「正義」の空虚さをさかんにからかうポーズを取っていました。『大日本』は、まさにそうした当時のオタクたちのメンタリティを体現したものだったと言えます。本作と同時に制作、上映された『快傑のーてんき』が、『快傑ズバット』*3というキザでスタイリッシュなヒーロー作品のパロディをデブ男が演じたものであったこともまた、同じ文脈から解読が可能です。
岡田さんは以前、何かの番組で以下のようなことを言っていました。
「自分にしてみれば、上の世代が体制へのカウンターとして不良物のドラマなど(これは想像するに、アメリカン・ニューシネマなどをも指しているのしょう)を好んでいた様が、どうにもウザかった。そこでそれへの更なるカウンターとして、敢えて(高校生などいい年齢になってまで)子供番組を見ていたのだ。」
記憶に依る要約で、正確さには欠けるかも知れませんが、これはオタク文化の特徴を的確に捉えた表現のように思います。
この意見が、「サブカル」陣営の傲慢な自意識と対になっていることは、もう言うまでもないでしょう。
そしてまた、体制へのカウンターとして始まったはずが、極めて抑圧的高圧的な性格を持つに至った現代の反ヘイトや反原発に対するぼくたちの違和感をも、岡田さんの視点は上手く説明しているように思います。
*1 これについては今世紀に入ってまだなお、『網状言論F改』の中で、岡田さん側を批判するネタとして蒸し返している人がいました。同書を編んだのが東浩紀さんであることが象徴するように、目下「オタクのスポークスマン」をもって任ずる人々はサブカル陣営か、オタクであってもそちらのスタンスに親和的な人たちばかりです。
*2 非常にマニアックな余談ですが、この図式は当時に描かれた漫画作品、『風の戦士ダン』と近しいものを感じます。これは『美味しんぼ』で有名な漫画原作者、雁屋哲さんの書いた「日本政府が世界征服を企み、政府直属の忍者集団がそれに反旗を翻す」という作品だったのですが、作画を担当したのが当時新人であったオタク世代の漫画家、島本和彦さんだったため、随所にギャグの入った快作として仕上がってしまいました。
*3『快傑ズバット』は「日本一のヒーロー役者」の誉れも高い宮内洋さん主演の、「渡り鳥シリーズ」を材に取った変身ヒーロー作品です。『快傑のーてんき』はそのイケメン主人公を世にも格好の悪いデブが演じて見せたところに面白さがあるわけです。
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