世界一「同質的」な日本の大学生たち ~なぜ大学から多様性が消えたのか~
- 2016/1/7
- 国際, 教育, 社会
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日本の大学は「学生運動恐怖症」を乗り越えよ
なぜ日本の大学はこうまで均一で同質的な学生しか擁せないようになってしまったのでしょうか。
大きな要因のひとつは、就職活動における「新卒神話」の存在があります。
大学を22歳で卒業しなければ大手企業に就職できない。これが海外のようなギャップイヤーの存在を許さず、学生に多様な経験を積ませることを阻害しています。
企業側が「多様な人材」「チャレンジ精神を持っている人材」をこれほど求めていることを鑑みれば、皮肉としか言えません。
また、あまり重要視されない要因ですが、自分は「学生運動恐怖症」という日本の大学のスタンスも、学生の均一化という現象を加速させているのではないかと考えています。
1950年代から60年代にかけて、日本の学生運動は空前の規模で推進されました。
当時、大学生はおろか高校生までが政治運動に熱中し、高校の生徒会が授業ストライキやデモ主導する、などという今では考えられない事件も多発しています。
こうした事態を重く見た文部科学省によって導入されたのがセンター試験の前進である「共通一次試験」です。
これには大学入試に必要な勉強量を嵩上げすることで、高校生たちに政治運動に熱中する暇をなくしてしまおう──という政治サイドの要望が反映されたと言われています。実際、共通一次導入後、「受験地獄が悪化した」とされ文科省は各方面から痛烈な批判を受けています。
また昭和の時代までは各地で見られていた「学生自治寮」の廃寮・規模縮小も同時期から進められました。
当時、寮生活をする学生というのは決して珍しい存在ではありませんでした。しかし「学生寮が政治運動の拠点となっている」ということで問題視されるようになり次々と潰され、今では京都大学や東北大学などの一部の国立大学にその痕跡を見る程度にまで縮小しました。
このように、当時の日本は
・大学入学に必要なペーパーテストの難易度を上げる(共通一次の導入)
・学生があまり密接に交流しないようにする(交流スペースや学生寮の縮小・廃止)
という施策で、学生運動の波を乗り越えました。
しかし、これらが長期化してしまった結果として、「学生の均一化」という現在の問題の遠因になってしまった、というのが自分の考えです。
ペーパーテストの難易度が高まれば、集中的に受験勉強を行える高校生しか大学に入学できなくなります。その結果が学生年齢の均一化です。
寮や交流スペースを廃止し学生同士の交流を妨げれば、当然そこからはスタンフォードで重要視されているような「学生同士の学び」が生じません。
「学生運動」という狼を恐れるあまり、大学の持つ多様性や問題解決力を損なってしまった。それが日本の大学が陥ったジレンマのように思えます。
確かに暴力を伴うような行き過ぎた学生運動は問題です。
しかし、能力と意欲のある若者は必ず社会に眼を向けていきます。
「素晴らしいイノベーションを起こす学生」というのは、得てして「とんでもない問題を起こす問題児」でもあります。イノベーターを育てたければ、問題児たちも同時に育てざるを得ないのです。
社会の政治的・経済的な閉塞感が強まる中、人材輩出機構である大学への期待はますます高まっています。
「人材の多様性」を実現するために大学が行わなければならないことは数多くありそうです。
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