ネット時代における大衆社会批判

大衆社会は、生徒が先生を評価する奇妙な社会

ところで、インターネット上で絶大な人気を誇る経済評論家の三橋貴明さんは、『日本のグランドデザイン』という著書の中で、日本が蘇るための4つの重要なステップの最終段階として世界で唯一の大衆知識社会を深化させることを挙げています。世界的に見て、非常に平均的に高水準である日本の知的能力をさらに底上げすることで、あらゆる人々に知的エリート並みの知的水準を求めることで、世界に類例のない社会構造を作り上げようという構想であり、この大衆知識社会の前提にしているのが、おそらくはインターネット上の活発な討論や知的交流であることは明らかです。

また、身体運動の研究者である高岡英夫は、1980年代後半から90年代前半にかけての著作で、近い将来、情報技術の進歩によって指導者からの一方的な指導に対して、修行者の立場の者が、同等の情報を持って、「先生、そのような考えやトレーニング方法は間違っているのではないでしょうか?」というような意見を表明したり、あるいは、修行者が十分な情報を得ることにより、その指導者の指導方針が正しいか、間違っているかの判断を下し、仮に間違っているなら、その間違った指導方針を根拠にその指導者のもとを去り、別の指導者を探し求めることが可能になるような時代が来ると予言しています。

彼らの予言や見込みが当たったことは間違いないでしょう。特定秘密保護法の問題では、大衆は、戦後民主主義的な価値観のもとエリートが必要な知識を独占することは間違っているという名目で、政府が安全保障上の重要な機密情報の流出を防止するための法律に堂々と反対を表明しましたし、高岡英夫の予言の後に、学校教育の現場等で、従来の先生が生徒を評価するという成績評価と同時に、生徒が先生を5段階評価し、さらにはその先生についての意見を書き込んで提出するなどという、良く言えばユニークな、また悪く言うならなんとも奇妙な制度が実現しました。

確かに、彼らの予言や見込みが当たっていたことは事実でありますが、それがどこまでポジティブな意味を持つのかという問題については、私は彼らと大分違った意見を持っています。高岡英夫や三橋貴明さんは、情報技術の進歩により、人々がかつてのエリート層とほとんど同等の水準までに情報へのアクセスが可能になり、その結果、非エリート層の一般大衆がそれぞれ自発的に意見を述べられるようになったという事実を非常にポジティブに捉えています。しかし、私としては、技術の進歩それ自体には反対しないものの、このような技術の進歩が社会にもたらした現象に対しては非常に否定的な評価をしています。

このような見方の違いが、何に起因するかといえば、それは一言で言えば、誰かが意見を表明し、場合によってはそれを社会や他者に押し付けるための権利に対する考え方の違いです。

特に、高岡英夫の考えに顕著に現れていますが、高岡は重要な情報にアクセスできる状況にあり、その重要な情報を知っている事それ自体を重要視することで、しっかりした情報をもとに各々が自分自身の意見を表明することが個人や社会にポジティブなインパクトを与えると考えました。しかし、私の考えはそれとは違っていて、特に現代のように情報が氾濫している社会にあって、人々は何かしらの情報を知っているというそれだけの事実を根拠に、自分には意見を表明し、それを社会や他人に押し付ける権利があるなどと考えるのは、あまりにも傲慢であり、同時に危険なのではないかと思うのです。

専門家や指導者に意見を述べる権利を持つのは、十分な検討と知的な考察を行った者に限られる

現代においては、情報を知ることに関しては誰でも簡単にできるようになりました。先に挙げた特定秘密保護法の問題であっても、インターネットで検索すれば、非常に多くの情報が手に入りますし、分かり易く解説したサイトもすぐ見つかります。しかし、ここで「私は、皆が知らない真実の情報を得た、だからこそ私はこの情報を多くの人々に伝えたい。この情報と信念を元に社会的、政治的な運動に参加したい!」などと考えるのは、あまりにも早計です。

まず、単純に言って、それまで政治に深くコミットし、その問題について長年頭を悩ませてきたような人間に対し、少しばかりネットでかじった情報を元に「アナタの考えは間違っています!」などと叫ぶのは、あまりも誠実性に欠けるのではないでしょうか。

その分野の専門家、あるいは指導者に対して意見を述べる権利を持つのは、やはり、その問題に関して十分な検討と知的な考察を行った者に限られるだろうと私は思うのです。つまり、分かり易く述べれば、人々が意見を述べたり、それを元に社会や個人に変化を与えようと望む際、そのような表現や活動をおこなうための権利は、そのための情報を「知っていること」に起因するのではなく、そのための「不断の知的努力、知的鍛錬」のみに基づくであろうということなのです。

大衆は床山政談に法の力を与え、その法の力を行使する権利があると信じている。歴史の中で、群衆が現代ほど直接に支配するにいたった時代があったとは、考えられない。だからこそ、私は超民主主義の時代というのである。

この「床山政談」を、「2ちゃんねるやツイッター上の書き込み」と読み替えるなら、まさに現代の滑稽さを表す的確な指摘となるのではないでしょうか。

同じことが他の分野に、とりわけ長いこと研究したテーマについて書こうとして筆をとるとき、筆者は、一度もその問題に心をわずらわしたことのない平均読者のことを念頭に置かねばならない。平均的読者がその本を読むとしたら、それは著者から何かを学ぶためではなく、それどころか、読者の頭にある凡庸さに著者の意見が一致しないときに、著者を弾刻するためであるということを、考えなくてはならない。

ともあれ、一度もその問題に心をわずらわしたことのない平均読者が、長いこと研究した著者を声を荒げて弾刻する様子も気持ち悪いし、また逆に、「俺の知的レベルが低いからこの程度の文章を書いているのではない。どうせ、平均的読者の感性や知的レベルに合わない言論など弾刻され、淘汰されるだけなのさ」と斜に構えながら、知識人と呼ばれる人々が、ひたすら下らない駄文をだらだらと垂れ流す様子も非常に不愉快なのであり、私としては、一刻も早くこの醜い上に下らないこのような現況から脱却して欲しいと願うばかりなのであります。

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西部邁

高木克俊

高木克俊会社員

投稿者プロフィール

1987年生。神奈川県出身。家業である流通会社で会社員をしながら、ブログ「超個人的美学2~このブログは「超個人的美学と題するブログ」ではありません」を運営し、政治・経済について、積極的な発信を行っている。

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