もう一つの見えない戦争-日露戦争の英雄・明石元二郎-

司馬遼太郎の誤り

 伝記ではこれでもかと明石のいたずら小僧ぶりが強調されています。その反面、勉強をしている素振りを見せないのに頭脳明晰で学業も常にトップレベルの天才児であることが記されています。では、明石は勉強だけできる人だったかというとそうではありません。
 これは司馬遼太郎が広めたイメージで最大の過ちなのですが、一般に言われる運動音痴ということは全くの事実誤認でした。同級生の立花小一郎大将が語るところによると、「私は士官学校に入学してから明石のことを知り交友を深めていった。明石は学問技術に優れ同期生65名のうち常に上位2,3番目の成績であった。(中略)明石は射撃が得意で競点射撃は優秀な成績を修め、特に器械体操が最も得意であり、乗馬も得意としていた」とあります。
 そもそも、陸軍の幼年学校から士官学校へ入学する際には身体測定があるわけで、頭脳だけでなく、肉体の健常さも重要な要素となってきます。当然ながらそれらをクリアした明石が運動音痴なはずがなく、司馬の「明石は運動音痴」というのはいかに小説でフィクションとはいえ不当に明石の評価を下げることに他なりません。

インテリジェンス・オフィサーとしての道

 明治16年(1883)12月24日、19歳になった明石は陸軍士官学校を卒業し、少尉に任官しました。ここから明石の軍人としての実務が始まります。また、地方の連隊に所属をしていた頃に陸軍戸山学校の教員として抜擢されたこともある俊英でした。
 明治20年(1887)1月に陸軍大学校へ入学します。この時も特に勉強した素振りも見せなかったという天才ぶりを見せています。戦術と数学が得意で、数学にいたっては弾道計算のために重要科目とされていた砲兵科の人間でもない歩兵科の明石が砲兵よりも優秀な成績だったというエピソードが残っています。明石は天才といっても差し支えありませんが、実はこの頃はまだ謀略に長けた人物というわけではありませんでした。明石がインテリジェンスの道を歩むのは大学校を卒業してからのことです。

 明治22年(1889)12月、25歳で陸軍大学校を卒業した明石はまずは歩兵連隊に配属されますが、その翌年12月から参謀本部へと配属になります。ここで日本のインテリジェンスの父・川上操六に出会います。
 川上は前述した軍制をフランス式からドイツ式に変更した際の立役者のひとりであり、実際にドイツに渡ってドイツの参謀本部で実際に勤務をするかたわら、普仏戦争でプロイセン(ドイツ)を勝利に導いた参謀総長モルトケからさまざまな薫陶を受けていきました。
 しかし、川上はドイツの進んだ軍制に驚きながらも、それを鵜呑みにするということはしませんでした。ドイツ式を採用するのはドイツが普仏戦争に勝利した強い国だかであって、日本は戦争に勝利するためにドイツを手本にするのである。決してドイツ式の全てが優れているわけでもなければ、ドイツが日本に全ての秘密を教えてくれているわけでもない。だから、ドイツの良い所は取り入れていきつつ日本にとって最良の方法を考えていくべきだという姿勢だったからです。明石はおよそ3年間の参謀本部勤務の時代に川上からインテリジェンスを叩き込まれていきます。

ついに実戦!ところが…

 明治27年(1894)2月に明石はドイツへ国費留学をします。明石はドイツでもどんちゃん騒ぎをしながら、先輩たちに可愛がられていくのですが、風雲急を告げる出来事が起こります。同年7月に勃発した日清戦争です。
 明石は翌年4月に日清戦争のためドイツより帰国します。4月4日に近衛師団参謀に任命され、同月10日に広島の宇品を出港し、13日には大連に到着します。ところが、この頃にはすでに戦闘は集結し、4月17日には下関条約が締結されてしまい日清戦争に参加することはありませんでした。

 ところが、下関条約によって台湾が清国から日本に割譲されることになってから、清国が裏で糸を引いて台湾で騒乱が起きました。明石たち近衛師団は台湾への出征が命じられました。
 5月22日に旅順を出港した近衛師団は29日に台湾へ上陸し進撃していきます。そんな折に明石がやらかしてしまいます。

 台湾出征に派遣された5月末から6月は台湾が最も暑い時期だとされていました。しかし、師団長は皇族の北白川宮能久親王でしたので、休憩の時間に暑いからといって士卒たちは砕けた格好は出来ませんでした。部隊が休憩をする時に、さすがに可哀想だということで親王が上着を脱いで構わないと仰ったので、みんな上着を脱いでくつろぐことになりました。
 ところが、普段から行儀が悪く、こんな時に真っ先に上着を脱ぎそうな明石が上着を着用したままでいました。それを見た親王から上着を脱いでも構わないぞと再度言われ、親王の御言葉を断るわけにはいかず、しぶしぶ明石が上着を脱ぐと上半身はシャツ1枚も着ていない素っ裸だったのです。
 いかにお許しがあったとはいえ、皇族の前で上半身裸の格好になるのは破天荒な明石でも気が気でなかったことでしょう。しかし、その明石の様子を見た親王は大いに笑われ、明石は愛嬌があるということでむしろ可愛がられたとのことでした。この愛嬌があって目上の人から可愛がられるというのは明石の才能であり、この円滑に人間関係を築ける能力が後の明石工作でも発揮されたと思われます。

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西部邁

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