戦後民主主義から生ずる偽善という恐るべきバチルスが完全に浸透してしまった
三島由紀夫といえば、三島事件、つまり、三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件を起こした人物ですが、三島由紀夫はこの事件を起こす4ヶ月前の1970年(昭和45年)7月7日にサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果し得ていない約束』の題名で寄稿しています。
私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら(中略)それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる
ここで、面白いことの一つは、「鼻をつまみながら通りすぎた」という表現でしょう。つまり、三島由紀夫を江藤淳と全く同じように近代社会の背負った宿痾あるいは業といったものを非常に身体的な感覚として感じ取ったのだということがこの表現からうかがえます。
井上勝は、日本最高のエリートとして、近代化という不可避の流れを受け入れながら、それと同時に感じ取る息の乱れというものから、それを日本の国土形成、つまり国づくりという具体的なカタチをともなった成果を生み出しました。一方で、そのような権力を持たない文学者はペンを使い、自分のそういった思いを抱えながら言葉を紡ぐのでしょう。
しかし、また三島由紀夫の面白いところは、おそらく、必ずしもそのようなカタチで言葉を紡ぐこと、つまり表現を行うことそれ自体を重要視していたのではないという点にあるのではないかと思います。
三島由紀夫は、かつて「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」と言ったといわれていますが、この一言の中に、三島は自己表現ではなく、むしろその表現しようとした事象そのもの、それは息の乱れであり、自己犠牲であり、さらに具体的に言えば、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふこと」そのものの事実に対して率直に苦悩することそれ自体にこそ決定的な価値を見出していたのではないでしょうか。
日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。
三島由紀夫は、先ほどの文章の最後でこのように述べています、
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである
多くの人々は、近代化の流れというものに何の疑問も感じずに、日々の生活を過ごしています。ある人は、ただ淡々と毎日の平凡な日常を過ごし、ある人は、自分はこの世の中で成功の階段を駆け上がっていくのだ!!と決意し日々猛烈に仕事をこなします。また、別の種類の人々は時には思想的に、学術的に、また別の場合には生活の実感として現代社会のあり方に疑問を抱きます。しかし、そこで多くの人は、しかし、これは不可避の流れであり、この流れにわざわざ一人頑張って抵抗しようなどと考えるのはあまりにも愚かで傲慢な変わり者の浅はかな考えに過ぎないのだと悟り、自分はこの不可避の流れに抵抗し溺れ死ぬことなどまっぴらごめんだと感じ、さて、自分はこの不快な潮の流れを自覚しつつも上手く流れに乗って泳ぎきってみようなどと考えます。そのうち、潮の流れの不愉快さも忘れ、それに順応して泳いでいるうちに、「なあに、慣れてしまえばなかなか心地よい流れではないか」などと思いながら、それに抵抗する人間はやはり馬鹿な連中だ、この流れに上手く順応出来ない落ちこぼれなのだという確信を深めていきます。
このような全ての種類の人たちと、この不可避の流れに苦悩し、命を賭してでも抵抗することに価値を見出す三島のような人とは思考的には永遠に平行線を辿り決して分かり合える時は来ないでしょう。なにしろ、一方は
「不可避の流れに逆らって、わざわざ苦悩することに何の意味があるのだ?」
と考え、もう一方は
「この大きな流れに身を任せ何の疑問も抱かず機械のごとくプログラム通りに生きることに何の意味があるのだ?」
と考えるのでありますから、この両者の溝は決して埋まることはないでしょう。
近代化の流れの中で、日本のアイデンティテイーは失われていき、「その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るだろう」と三島は予言し、そして最後に「それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」と言うのです。
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