15歳が観る保守と憲法
- 2015/4/17
- 思想, 歴史
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基本的人権と国民の権利
次に国民主権、平和主義と並び現行憲法の弊害と言えるのは基本的人権である。
この基本的人権という概念も前述したあのフランス革命で登場した概念である。
本来、権利とは秩序を前提とするものであると言える。請願権や参政権も秩序を維持する法と国家無しには成立し得ない。無政府状態でこれらの権利は保障されないことは歴史やアフリカのソマリアを見れば明白である。
つまり、権利とは国家に属する「国民」の権利と言えるだろう。またその権利も先人が祖国を作ってきた精華と言えることができる。そう考えればむやみに権利を濫用することもできないだろうし、先人から受け継いだ権利を破壊しようとする動きも無くなるのではないだろうか。
一方で基本的人権はあくまで「人間」の権利であると主張する。国籍も年齢も関係なく人間は権利を持つ、何の努力も無しに、まるで動物のごとく、キリスト教的神から与えられるこの基本的人権は保守の論理とは到底相入れないのではないだろうか。
戦後左翼陣営の一部勢力は基本的人権を理由に万世一系の国体を破壊しようと主張するものがいる。また、同じく基本的人権を理由に外国人に参政権を与えようとする動きも存在する。
両論とも到底、保守派には受け入れがたいものではあるが、これらの荒唐無稽な論を生んだ背景に基本的人権があるのは確かであろう。
保守派は人権ではなく万世一系の国体の下、育まれてきた国民の権利を守る憲法を作っていかなければないのではないだろうか。
今こそ大日本帝国憲法の精神に立ち返るべき
今まで述べてきた日本国憲法を否定するのであれば、ならば我々は何を手本とし憲法改正論議を進めなければならないのか。それは大日本帝国憲法である。
帝国憲法は現行憲法では感じることができない日本精神を感じることができる。
それは第1条を観れば明白である。帝国憲法第1条では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」こう明記されている。ここにおいて天皇は日本を統治すると明記されたわけであるが、この統治とは大和言葉における「シラス」という言葉の代替である。「シラス」とは古代においては「神意を伝える」ということを意味していた。帝国憲法自体には漢語の「統治」という言葉が使われているが、この「シラス」という言葉を元にした言葉が条文に挿入されたことは、神代の時代より続く万世一系の天皇のあり方を示したということがわかる。日本精神、つまるところ万世一系の天皇のあり方を示すなど現行憲法においては到底、真似できないことであろう。
そんな帝国憲法は現在においては天皇主権憲法の独裁的憲法というレッテルを貼られている。しかし、それは事実とは大きく異なる。
帝国憲法において第1条に関連し第4条において天皇は統治権の総覧者とされた。統治権とは国家の最高権力である。統治権が主権と同義であるかについては学術的論争が今も続いているが、あえて帝国憲法において主権ではなく統治権とした明治の元老らの意図を汲めば、おのずと帝国憲法における統治権の意味と答えが出るだろう。
その統治権の総覧者とは何か、総覧とは総てを観覧するものということであり、天皇自身には統治権を有しない。つまり国家の最高権力者を帝国憲法では規定しなかったのである。
このことは日本に独裁者を生まないという明治の先人の叡智であろう。それを歪解し天皇主権と主張する戦後左翼はあまりにも幼稚であると言わざるを得ない。
また帝国憲法で天皇は神聖不可侵とされた。これを根拠に戦後左翼は戦前を天皇を神とするカルト国家であると断じたが、それも根拠のないものであろう。神聖不可侵とは天皇の非政治性を守るものである。なぜなら神聖不可侵は天皇自身も自らの神聖を侵すことはできないからである。時の天皇が仮に政治を直接、統括した場合、天皇の地位は極めて世俗的なものになってしまう。そうなれば天皇が失政を行えば必ず、民衆からの反発をくらい、天皇ひいては皇室への尊敬は政治的で俗世的な反発に変化するであろう。それを防ぐ意味においても神聖不可侵とは立憲君主、国体を守る盾と言える。実際、ヨーロッパに目を向ければベルギー王国憲法においても国王は神聖不可侵と規定されている。神聖不可侵の条項をカルト的と言うならばベルギーもカルト国家ということになってしまう。左翼の論理的破綻は目に見えている。
私は帝国憲法を全肯定するわけではない。帝国憲法第11条における統帥権の独立に関しては憲法として欠陥があったと指摘する意見も全く同意できないわけではない。現代日本で大日本帝国憲法の全条文をそのまま復活させるべきとも思わない。しかし、以上のように大日本帝国憲法は天皇主権の独裁憲法ではなく、極めて正常な立憲君主国にふさわしい憲法と断言することはできる。
保守派が行うべき憲法論議とは
前項で論じたように大日本帝国憲法は極めて正統で国際的に見ても極めて立憲的な憲法であった。しかし現在の保守派は基本的に憲法論議と言えば現行憲法を前提とした憲法改正論議しか行わない。このこと自体が戦後レジーム、敗戦体制の現れであると言える。
憲法とは英語でconstitution、直訳すれば国柄である。しかし現行憲法が日本の国柄を体現しているとは断じて言えない。その対極にあると言っても過言ではない。ならば我々、保守派がすべき憲法改正議論とは現行憲法を前提とするものではなく、議論すべき前提は我が国の国柄を体現している大日本帝国憲法である。
保守政党を自認する自由民主党を始めとする保守派と呼ばれる知識人、政治家諸氏には、戦後レジームの闇から脱し、タブーを恐れず、勇気を持って無謀な三大原則を掲げる現行憲法ではなく、大日本帝国憲法を基礎とした憲法改正論議を進めていってもらいたい。そうしなければ、真の意味での「戦後レジームからの脱却」は永久に不可能である。
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コメント
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先日、私の論考にコメントをくださった方ですね。15歳とは驚きました。よく勉強されていますね。これからもどうぞ研鑽を重ねて自前の政治思想、社会思想を深めてください。一つだけ先輩ぶって言わせていただくと、文体にやや過激な調子が見られるので、多くの人を説得するには、少々不利かな、と愚考します。でもそれもあなたの年齢なら当然ですよね。
あなたのご意見には、大部分賛成ですが、特に現憲法に謳われた「国民主権」に対する批判、保守派でさえもこれを疑おうとしない情けなさの指摘については全面的に支持します。これを疑う人がいないのは、まさに戦後レジームにすっかりやられている証拠だと思います。自民党憲法草案、産経新聞憲法草案など、名だたる保守論客や憲法の専門家が作ったものに、この欠陥がよくあらわれています。
ちなみに、自己宣伝になってしまって恐縮ですが、私もこの点について、昨年、旧著『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)の増補版のかたちで詳しく論じ、自分なりの「自主憲法草案」なるものを提示してみました。ご参考にしていただければ幸いです。なお、この元になった原稿は、拙ブログの以下のURLで閲覧することができます。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f
コメントありがとうございます。
小浜先生に小論を読んでいただき光栄です。私としては保守もかなり戦後的であると常々思っており、そういった思いで本文を書きました。このことは小浜先生と共有できているのではないかと思います。
文体については寄稿後、自分でも固すぎたと反省しています。次回作はもっと多くの人々に語りかけるような文章にしたいと思います。
これからも言論活動を行っていきたいと思いますので、ご指導いただければ幸いです。
基本的に賛同します。小浜氏も述べられている通り、現在は国民主権自体が無批判に受任されています。その一方で、投票率の低下など、明らかに主権者としての意識の低下があり、真に日本は国民主権国家たるべきかを今一度とうべきと思います。ただ、「定着した」民主主義に就いては、私も(二〇一五年現在では)最良の政体と考えています。と言うのも、
一、民主主義は国民の政治参与が前提であり、国会も内閣も国民が選任した者であり、専制君主の様な敵が存在し得ない。
二、国会議員などは民意に強く依存する為に、国民の望まない事を行い難い。故に不満が溜まりにくく、抑圧され難い。
三、上記故に、定着した民主主義は現在最も体制維持に
基本的に賛同します。殆どが自分の意見に合致していた為、前に私が書いたのかと錯覚する程違和感画ありませんでした(笑)。
さて、小浜氏も述べられている通り、現在は国民主権自体が無批判に受任されています。その一方で、投票率の低下など、明らかに主権者としての意識の低下があり、真に日本は国民主権国家たるべきかを今一度問うべき段階が来たと思います。ただ、「定着した」民主主義に就いては、私も(二〇一五年現在では)最良の政体と考えています。と言うのも、
一、民主主義は国民の政治参与が前提であり、国会も内閣も国民が選任した者であり、専制君主の様な分かり易い民衆の敵が存在し得ない。
二、国会議員などは民意に強く依存する為に、国民の望まない事を行い難い。故に不満が溜まりにくく、また意見も抑圧され難い。
三、上記故に、定着した民主主義は、現在最も安定した秩序と体制をもたらす。
と、この様に考えているからです。ユビキタス社会の到来とビッグデータなどを活用したコンピュータが合わさる事で実質的に訪れるであろう管理社会を除けば、人間の創り出した政治体制の中では、最も実現難易度が高くかつ実現時の安定度が高い、民主主義とはその様な政体ではないのでしょうか。勿論、チャーチルが言ったように、民主主義は依然として他の政体を除けば最悪な分類に入ります。しかし、まだ民主主義は不完全な制度であり、その可塑性たるや、これからも発展の余地は充分にあるかと思います。
失礼、ミスタッチで先の不完全なコメントをお送りしてしまったようです。申し訳ありません。
それと、宜しければ私が作成した憲法案でも笑覧下さいな。私案はやや条数が多過ぎるきらいがあり、これからも見直しが必要なものと思っておりますが、私も貴方とほぼ同じ一九九八年生まれであり、恐らくは似た様な考えをお持ちかと思いますので、参考になれるならば、幸いです。
http://shikishima4423.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html
しきしまさま、コメントありがとうございます。
私としても現状の民意に基づく政体を維持すべきと考えています。
ただ、やはり民主主義で決めて良い部分と侵し難い部分を分けるべきと考えています。今の我が国では二院制が採用さています。それ自体には大いに賛同しますが、民意代表の院として衆議院が存在するのに、参議院まで民選制である現状は問題だと考えています。また民意を絶対善とする思潮も危険と言えるでしょう。デモクラシーを我が国の伝統と良識で規制する。これが私が考える民主主義(民本主義)です。
憲法私案、拝読しました。実は私も憲法私案を作っていまして、内容が一致する部分が多く、驚いています。
同世代で自分と似た考えを持っている方がおられるのは嬉しく思います。
こちらのサイトはあまり読みませんから、完全に失念していましたが、ふと、思い出したので今更ながら投稿です。
二院制であるにも関わらず、参議院が衆議院と似たような選出法をとっているのは私も問題と認識しています。憲法案では当初は貴族院で、英国を倣ったものでした。旧家の伝統を守るという意味もありましたが、現代の風潮にそぐわないことと、一君万民の観点から参議院に戻しました。可塑性の面もあり憲法案では簡素なもので、具体的な言及は無くなりましたが、地方の首長や議員、或いは完全な地方枠での選挙、また一定回数の首相経験者や一定年齢を過ぎた衆議院議員、大学教授への任命など、考えられるでしょう。首相経験者や一定年齢以上の衆議院議員の参議院任命は、参議院の若返り効果も期待できます。反対に参議院の監査機能の強化にも繋がるでしょう。
民本主義については、国民を主権者から、観念たる国家に移し、公民という政治的存在を新たに創ることを提唱しています。国民と公民を分け、公民権とその義務を行う国民を公民とする訳です。これにより、まず国民は主権者でなくとも公民である限り、政治には参与できます。そして、重要なのは政治に対する義務感を高めることです。民本主義の擁護の為にも公民という意識は学校教育から叩き込むべきです。中学から徐々に始め、高校で本格的な公民教育を行うべきでしょう。公民は、十六歳以上の日本国民である。こう、法律で書かれるようになれば嬉しいものです。一方で、裁判所による公民権の剥奪なども刑罰に含む、或いは自主的な返納も可能な様にすべきです。公民権は行使しなければならないものであって、選挙をさぼれば罰金などを徴収したいですし、そもそも選挙に行く気がないもので投票数が変化すれば、公民としての義務を果たした者に不公平です。ただし、奪ってばかりではなく、公民権の回復もできるようにしたほうがよいです。人は変わるものですし、国民である以上は出来うる限り、公民にさせた方が民本主義の安定の為に望ましいですから。
私が活発にコメントを投稿しているのはBLOGOSなのですが、岡部凛太郎氏と同じと思われるアカウントがありましたので、フォロー致しました。いまのところ、あまり活発では無いようですが、BLOGOSでの記事執筆や、様々な記事へのコメントなど、期待しております。