殺人ビデオから見えてくる意外なこと
- 2015/1/5
- 文化
- 殺人
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現実を知ることに繋がる
それにしても、何故私は死体を観るのであろうか。理由は言わずもがな自身の「殺意の沈静」である。極めて利己的ではあるが、第一の理由は結局のところ自分の為である。しかし、創作であれ、現実であれ、多様な人間の死を(間接的にとは言え)「死」を見続けた事で私の中で「死」に対して思案を巡らせる事が多くなった。「人間なんてものは死んだら所詮は生ゴミも同然」というものである。貧富の差や社会的地位など、その他諸々の価値観全てが無意味。路傍に転がる犬のクソ同然である。(だからと言って刹那的な快楽を貪り続ける人生というのも嫌だが。)
人生は無意味と考える事は、虚無主義と呼ぶものかもしれない。しかし、それで良いのではないか。下手に天国だ地獄だ、来世だ前世だと神秘的に考えるよりも、積極的に人生が無意味だということを肯定し、最後の瞬間まで私は強く生き続けたいと考えるようになったのである。
都市伝説の定番に「スナッフ・フィルム」というものがある。どういうものかと言うと、「アンダーグラウンドでは娯楽のために人を殺害し、その模様を収めたフィルムがひそかに売買されている。」といったものだ。そうした噂は其処彼処で囁かれていたのだが、あくまで噂の域を出ないものであった。私もそうしたフィルムの存在に興味を惹かれつつも、その存在は疑っていた。
しかし、その認識を改めさせたのが2007年に登場した「ウクライナ21」である。ウクライナに住む当時19歳の若者二人が自身の快楽目的の為に、ホームレス21人を殺害。その光景をビデオカメラで撮影し販売を画策していたというものである。寸でのところで二人は逮捕されたのだが、一体どの様な経緯からか映像が流出し、当時立ち上がったばかりの各動画共有サイトに投稿され世界中に衝撃を与えた。(奇しくも2007年は私がはじめてPCを手に入れ、ネットの世界に足を踏み込んだ年だ。)
それは「スナッフ・フィルム」が持っていた都市伝説という「神話性の消失」を意味する。この問題は実は小さいようで途轍もなく大きい。いや、もしかすればネットが普及する以前から「スナッフフィルム」は確実に存在してたのだろう。ネットは良くも悪くも、人間社会の全てを可視化してくれた。そして社会との接点も身近にしてくれた。誰しもが「スナッフフィルム」の出演者(被害者)となり、観客となり得る時代が訪れたのである。
それは誰が求めたものだろうか。単に一部の快楽殺人者達に振り回されているだけなのだろうか。
ネットに溢れる生放送、特にライブチャットでの性行為の配信などは判り易い。そうした衝動は何も製作者のみならず視聴者にも内在する問題でもある。ライブチャットといえば、この手のジャンルでは「アダルト動画の無法地帯」ともよばれるFC2が風営法違反(アダルト動画配信の無許可営業)の容疑で警察から捜査を受けた事件は記憶に新しい。
FC2だけでなく、ネット上にはセックスはスナッフ以上に氾濫している。それこそ、明らかに法を逸脱しているとしか思えない動画や画像が其処彼処で堂々と販売されているのが現実だ。
そういえば、元葛城市議の吉武昭博がナンパした女子高生との性交を盗撮し無修正で販売してた事件があった。吉武自身の責任は言うまでもなく、個人的には安易に誘いにのった女子高生についてもひとこと言いたい気分ではあるが、ともかく全ては「現実の出来事」であり「事件」なのである。アダルト動画はともかく、こうした問題を「画面の中の出来事」として捉える訳にはいかないだろう。そこでは実在する人間が消費されているのだから。(いや、むしろ比率で言えばアダルトの世界こそ注視すべきなのかもしれないが、如何せん女体よりも死体絡みの事件に興味があるのだ。)
兎に角、気がつくと私の「死体を観る」目的は「殺意の沈静」から、「現実である限りは知らなければならない」といった目的にシフトしていったのである。アンダーグラウンドが消えうせたからこそ、私はそこを見つめたいのである。
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2015年 1月 05日トラックバック:N.E.U.T.R.A.L
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