情報社会における情報の欠乏というパラドクス
- 2014/2/14
- 思想, 社会
- 暗黙知
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私は、以前書きました記事において、3回に渡って、現在のネット社会における危機的状況について解説しました
これらの記事において、私は、現代のインターネットでのコミュニケーションが極端にテキスト情報を中心とした言語的メッセージを中心としたものであり、非言語的なメッセージやコミュニケーションといった情報の欠乏や、あるいはインターネット上のバーチャルな人間関係や情報収集、あるいはコミュニケーションにかける時間と労力が増大することによる血の通ったリアルなコミュニケーションの機会が欠乏していくという問題が発生するのではないか?といった問題を取り上げました。
氾濫しやすい情報は体温が低い
このような問題に関し、スカンジナビアの科学評論家でジャーナリストのトール・ノーレットランダーシュ氏は、問題の本質は情報社会における情報の欠乏にあるとし、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』という著書の中で、このように述べています。
情報社会は新たな危険も孕んでいる。それは、情報の欠乏だ。というのは、直線に支配された都市では極端に情報が不足しているのとまったく同じように、情報社会でも情報があまりに少なすぎるからだ。そこでは、たいていの人々は、言語の狭い帯域幅を使って懸命に仕事をする。
むろん、情報社会では情報が氾濫することになるという不満の声も、すでに多く上がっている。しかし、事実はその逆だ。本来、人間には一秒あたり何百万ビットもの生の情報を有意義に処理する能力があるのに、今ではコンピューター画面を見ながら毎秒数ビットを処理するだけだ。作業工程から物を扱う実感が抜け落ち、意識では一秒あたりほんの数ビットの情報で我慢しなければならない。これはちょうどファーストフードのようなものだ。消化するものはほとんどない。作業中にもその後にも、捨てるべき骨や繊維質はまったくないのだ。
昔の職人は、材料や工程や作物に関する膨大な<暗黙知>を持っていたが、今ではコンピュータ画面に表示される、意識的に立案された技術的な解決法に従わなくてはならない。(中略)
情報社会がストレスに満ちているように思われるのは、情報が多すぎるからではなく、少なすぎるからだ。(中略)
近いうちに、感覚刺激の欠乏は社会の主要な問題になり、情報の流れのただ中で意味を求める切実な声が上がるだろう。人間は狭い帯域幅に落ち込んで、退屈しつつあるのだ。(P486)
この文章は、インターネットが一般家庭に普及する何年も前の1991年に書かれたものなのですが、現代の情報社会における問題点を非常に的確に指摘していることに驚かされます。
最初に、直線的な都市の問題についても触れていますが、これは、ランダムな曲線に囲まれている自然の風景との比較において、人間の設計した都市の風景の直線性との対比を行っています。非常に大量の人口が密集している都市は、一見非常に膨大な情報に溢れているように見えて、都市に住むほとんどの人々は、そこから何の感銘も、驚きも受けません。おそらく、ほとんどの人にとって、最も心を打たれる風景とは大自然の作り出した曲線のなす非人工的な風景ではないでしょうか。
また、
近いうちに、感覚刺激の欠乏は社会の主要な問題になり、情報の流れのただ中で意味を求める切実な声が上がるだろう。人間は狭い帯域幅に落ち込んで、退屈しつつあるのだ。
という記述も、非常に現代社会の問題を的確に予言しているように思えます。現実に、ネトゲ廃人と呼ばれる一日中オンラインゲームに明け暮れる若者たちが一時期社会問題化しましたし、学校教育から落ちこぼれの子供たちが部屋に引きこもってインターネットに明け暮れる姿は一般的なものとなっています。もっと一般的な例を挙げれば、学校や職場の煩わしい人間関係を避けて、放課後、あるいは退社後に早々に家に帰り、ネットサーフィンやSNSでの友人とのやり取りで時間を過ごすという人も増えているでしょう。職場でマニュアル化されたコミュニケーション、つまり狭い帯域幅の情報のやりとりしか出来ずに欠乏し退屈している個人がもっと全体性のあるコミュニケーションを求める、マニュアルより外の領域の情報のやりとりをSNS等に求め欲している状況はある意味必然的といえるでしょう。
もちろん、これはネットの出現や、情報社会化のみの責めに帰すべき問題ではないのですが、一方で、ネット等の情報技術の発達がこのような状況を生み出すのに一役買っていたことは間違いありません。
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