『日本式 正道論』序章 世界と国家と人生、そして道
- 2016/6/13
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
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『序章 世界と国家と人生、そして道』
【目次】
序章 世界と国家と人生、そして道
第一節 心世界
第二節 境界線
第三節 垣領域
第四節 国家間
第五節 言乃葉
第六節 日本国
第七節 日本人
序章 世界と国家と人生、そして道
世界について。
人生について。
そこで日本という国家が意識され、この日本の道と出会う。
第一節 心世界
世界には、たくさんのものが在って、色々なことが起こります。
世界という言葉は、仏典にはじまり、衆生の住む所をさします。「世」は過去・現在・未来の三世の時間、「界」は東西南北上下の空間をさします。宇宙という言葉も、「宇」は空間、「宙」は時間をあらわしますから、世界は宇宙という語に近い意味を持っています。一般語としての世界は、人間や生物が暮らしている範囲や、知識の届く範囲の総体を意味します。
世界の認識は、心によって可能となります。それゆえ、心そのものは一つの世界です。日本臨済宗の祖である栄西(1141~1215)は、心について、〈それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり(『興禅護国論』)〉と述べています。太虚とは宇宙空間のことで、元気とは万物を生み出す根本エネルギーのことです。
心は、身体を通じて言葉を発します。その心が、言葉を通じて他の心と交流することにより、心は世界の中の一つの作用であることを認めます。幕末の志士である吉田松陰(1830~1859)は、〈然れども人は人の心あり、己れは己れの心あり。各々其の心を心として以て相交はる、之れを心交と謂ふ(安政三年の『書簡』)〉と述べています。
心とは、世界そのものであり、世界において相交わることなのです。
江戸後期の儒学者である佐藤一斎(1772~1859)は、〈満腔子是れ惻隠の心なるを知れば、則ち満世界都(すべ)て惻隠の心たるを知る(『言志後録』)〉と述べています。満腔子とは体全体のことであり、惻隠の心については、『孟子』の[公孫丑上篇]に、〈惻隠の心は仁の端なり〉と記されています。つまり、体全体が惻隠の心になっていることが分かれば、世界全体が惻隠の心で満ちていることが分かると語られているのです。
心に対する考え方として、心が世界そのものであるという観方があり、また、ある心は世界の中にたくさん在る心の中の一つだという観方もあります。それぞれの観方は、世界に対する異なる角度であり、双方ともに、それぞれの視点で成り立ちます。そこで、様々な視点を取り込んだ、包括的な観方というものが考えられます。包括的な観方によって、世界を観ることは大切なことだと思われます。
世界とは様々な角度から観ることができるものであり、色々な角度から観ることなのです。
色々な角度から世界を観ると、世界の成り行く勢いは状況を生じさせ、そこにおいて心に選択肢が現れます。選択肢は複数あり、心はその中からどれかを選び取ります。そこでは、「選択しない」ということも選択肢の中の一つであり、「選択しない」という選択を選んでいることになります。「選択を誰かに委ねる」というのも、「選択をまわりの雰囲気に合わせる」というのも同様に選択の一つです。常に何かを選び続けることは、心の前提条件なのです。
心は何かを選択し続けていきますが、その心がどういう世界に立っているかにより、選択肢の現れ方が決まります。別の言い方をすると、心が、自身の居る場所を解釈する仕方によって、出会う状況による選択肢がもたらされるのです。
選択肢に応じて、心は自身の人生における「その選択」を選び取ります。江戸前期の儒学者である伊藤仁斎(1627~1705)は、このことを「意」と表現しています。〈意とは、心の往来計較する者を指して言う(『語孟字義』)〉のです。往来計較とは、あれこれくらべあわせて考慮することです。複数の選択肢の中から、その選択を選び取る「意」は、人生の為し方に関わります。
人生とは、死を迎えるまでの期限付きの期間であり、選択肢と決断を導くものであり、その決断を伴う状況へと世界を繋げることなのです。
公卿である北畠親房(1293~1354)は『神皇正統記』において、〈正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也〉と言い、〈決断ト云ニトリテアマタノ道アリ〉と述べています。どのような世界を成しているか、どのような人生を為しているかによって、決断の仕方が決まるのです。複数ある選択のそれぞれの意味を考慮し、それらを比較することで、選択肢の中から決断が行われるのです。
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