今回はドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724~1804)と、ドイツの哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770~1831)の見解を参照していきます。
カントの自由を知るには、『純粋理性批判』・『プロレゴメナ(序説)』・『人倫の形而上学の基礎づけ』・『実践理性批判』・『人倫の形而上学』などが挙げられます。ヘーゲルの自由を知るには、『精神現象学』や『法の哲学』、講義録の『歴史哲学講義』などが挙げられます。
カントやヘーゲルは難しいので、よく分からないようでしたら、今回は読み飛ばしてもらっても構いません。
カントの自由
カント哲学においては、意思だけが自由であるとされ、二つの自由概念が提示されています。
一つ目は、超越論的意味の自由です。超越論的自由は、自然の諸法則に依存せずに出来事をみずから始める能力であり、現象における原因の無条件的原因性を意味します。
二つ目は実践的意味の自由です。実践的自由の消極的概念として、感性的衝動による規定から独立であることが、積極的概念として、自分自身の純粋理性の能力により、行為の格率が普遍的法則になることが示されています。
普遍的法則は道徳的であり、自然法則のように絶対的な必然性を持ち、定言命法を含み、それ自身のために為されなければならないとされています。カント哲学では、他のものの手段として善である命法は仮言的であり、それ自身において善である命法は定言的だと定義されています。例えば定言命法では、無条件で嘘が禁止されています。
選択意志が純粋理性によって規定されるとき、意志は、自由な意志であるとカントは言います。なぜなら、意志は理性ある生物の原因性の一つであり、自由は原因性が外的要因から独立に働くときの特質であると考えられているからです。
カントの検討
以上を考慮し、カントの自由について考えていきます。まず、自然法則と意思は区別することができます。ですから、意思は自然法則と一致していない、意思は自然法則に完全に束縛されてはいないという意味で、意思に自由(liberty from)という言葉を冠することは、数多ある世界の観方において、一つの限定された視点における用語法として成り立ちます。それゆえ、超越論的意味の自由が思考可能なのです。ただし、意思一般は自然法則などの条件の影響下で働くものであり、外的要因から独立であることはできません。このことは、肉体の状態が精神に及ぼす影響を考えてみると良く分かります。
精神は諸条件における判断から、条件を除くと、意志として浮かび上がります。ただし、浮かび上がるものは、浮かぶための何かを必要とします。そのため、そもそも条件がなければ、意志はありえません。それゆえ意志とは、外的要因から独立に在ると見なしえても、外的要因から独立に働くものではないのです。
このことは、実践的意味の自由において特に重要です。「有ったものを無かったと見なすとき」に浮かび上がるものは、「無かったとき」には浮かび上がれないかもしれないのです。「有ったものを無かったと見なすとき」と「無かったとき」は、区別する必要があるのです。道徳や法は、歴史や伝統などの条件を含んだ内実によって規定されるのであり、歴史や伝統を離れて、ただ単に善があると思うのは思想的に幼稚です。
そのため定言命法は、厳密に言えばありえません。世界の豊饒性が、定言命法という安易な解決を許さないのです。提示された定言命法に対して、極めて有効な反論が可能です。ですから、嘘や自殺が必要なときがあるばかりか、嘘や自殺が道徳的であり善であるときがありえるのです。ですから、条件における判断の傾向性があり、それらを統合した中庸が大切なのです。ですから、仮言的な命法内における優劣が重要になるのです。
そのため、仮言的な命法内において優劣を判断している場合、つまり、この世界でみんなと共にまともに生きている場合、定言命法を提案することは愚かなことだといわざるをえなくなるのです。
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