クルマ社会がもたらす地方都市の荒廃 – 新しい交通システムLRTに未来はあるか
- 2014/6/5
- 社会
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保守すべきものと改善していくもの
さて、このような大衆の欲望に支えられたクルマ社会は、進んで維持するに値するものとはとうてい思われません。にもかかわらず、クルマ社会からの脱却が切実かつ喫緊の課題として都市政策の焦点になったことは、わが国ではほとんどないのです。
その背景に、戦後、国および自治体が一貫して自動車文明を価値観において是認し、クルマ社会を現実の施策において容認してきたという事情があります。そして、戦後の政治にあってほぼ常に多数を占めてきたのは、いわゆる保守派でした。つまり、戦後の保守政治がクルマ社会を守り育ててきたのです。
一方、左翼といわれる革新派は、公害患者の救済、自然環境の保全の観点から、自動車の止め処ない普及に警鐘を鳴らしてきました。しかし、左翼人士の通弊で、弱者保護を名目に、生存権などの憲法上の権利を叫び立てる論調が目立ちました。底の浅い反権力のイデオロギー論争の一環としてのクルマ社会批判にとどまりがちだったのです。
そのため、例えば、保守派が経済成長の観点からLRTに関心を示すと、革新派は福祉拡充の観点からLRTを税金の無駄遣いと断じます。互いに習い性として、冷戦時代の名残のような対立劇を演じるわけです。結局、保革の両派ともがクルマ社会を深く疑いもせず、各々の利害の妥協するところ、その維持に手を貸してきたのです。
なぜこうなるかといえば、いかなる都市政策も、連綿と続く地域の歴史の土台の上に築かれねばならないことを失念しているからです。歴史への忘恩が、わずか数十年の間にクルマ社会が破壊してきた都市文化の尊さ、それゆえの脆さを忘却させているのです。そして、クルマ社会の時空の延長上に漠然と良き価値が実現するかのような幻影を追わせているのです。
しかし、良き価値は、歴史の知恵を伝承する共同体が宿しているはずです。保革の対立を超える共通感覚の在り処は共同体の内部に探られるはずです。そのように考えるのが常識というものでしょう。ならば、保守すべきは共同体であり、改革すべきは、共同体を破壊するクルマ社会であることは明白です。現に、マイカーの普及とともに最も基礎的な共同体である家庭は崩壊に向かい、家族の紐帯から切れた個人はロードサイドを彷徨い、マイカーをもたない者は自室に籠もっています。そして、身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。
このような惨状を見かね、都市の復元に名乗りを上げる主体は、本来の保守であるべきではないでしょうか。地域の良習、祖先の良識を過去から受け継ぎ、現在において改良を加え、未来に譲り渡すこと、これが保守の基本的な使命です。保守は、その原点に立ち返り、モータリゼーションの帰結を直視し、その転換を図る具体的な行動を開始すべきなのです。
自らの足元のクルマ社会を、その弊害が顕著であるにもかかわらず放置したまま、いくら地方分権を推進しても、また、仮に道州制を採用したとしても、そのような制度改革はさらなる地域破壊をもたらして失敗に帰すことでしょう。それが共同体からの遊離の結末なのです。
交通政策と密接に関わる地域共同体の問題
とすれば、クルマ社会からの訣別は、都市政策の枢要な目標に掲げられねばなりません。そして、その目標を達成するため、LRTが実際に各都市に続々と導入されていても、全く不思議ではありません。そうなっていないのはなぜでしょうか。
まず、日本の地方都市には総合的な都市交通政策がほとんど存在していません。公共交通を維持し、改善する基本的な責務すら民間企業に預けている自治体が少なくないのです。平成の構造改革が、「官から民へ」の掛け声によって、その消極姿勢を正当化してもきました。では、自治体の主たる仕事は何かといえば、自動車の渋滞対策です。いかに自動車を円滑に通行させるか、これが交通政策の最重要の課題なのです。つまり、クルマ社会が行政にとって所与の前提になっているわけです。
したがって、公共交通の位置づけも、あくまでクルマ社会の綻びを繕う手段という枠の外には出ません。当たり前ですが、手段は目的との相対で決まります。自動車交通の円滑化が目的であれば、公共交通の手段は自動車の間を縫って走るバスで十分でしょう。しかし、クルマ社会そのものの転換にまで目的を引き上げるなら、自動車の通行を物理的に遮断する路面電車を手段とするのがより適切です。このような「目的-手段」の垂直関係を見失っているがために、LRTをめぐる議論は深みや厚みを欠いたまま低調に推移しているのです。
その一つの例が、筆者の住む石川県金沢市でみられます。金沢市が、ほとんど教科書的といってよいほどのクルマ社会へと突き進んだのは、市内に張り巡らされていた路面電車を全廃した1967年以後のことです。翌年から、バスより優等な公共交通の手段を求めて各界で議論が始まりました。そして、紆余曲折を経た末、1998年に事実上、その候補をLRTに絞り込みました。
ところが最近、金沢市は「新しい交通システム」の導入実現をなお10年ほども先の課題とし、しかも、LRT以外の候補を改めて選択肢に追加しました。すなわち、「LRTかBRTかGWBかDMVか」について再検討を行うというのです。何のことやら珍紛漢でしょうが、後三者は基本的に自動車と同じゴムタイヤの乗り物です。つまり、路面に軌道を敷かなくて済む分、自動車の邪魔をする度合いが小さいのです。
この金沢市のように、交通政策の目的水準を低くとどめている限り、技術の水平次元で薄っぺらな議論が延々と続いてしまいます。逆にいえば、目的水準を高めるにつれ、交通政策が他のあらゆる政策と密接に関連している模様が明瞭になり、技術論にこだわっているわけにはいかなくなります。経済、産業、環境、福祉、教育、文化、そのほかいずれの分野の政策も、その都市の交通のあり方に大きく左右されるのです。例えば、「新しい交通システム」をLRTに決めるなら、街路に埋め込むレールの存在が人々の将来予測にあたっての安心材料となり、衰退した中心市街地への投資を促し、地域経済の浮揚につなげることができましょう。
シャッター街をどう再生させるか。コインパーキングをいかに削減するか。道路の公共性をどう回復するか。そして、クルマ社会の浸食から地域の共同体をいかに保守するか。このような問題意識は、日本の地方都市の交通政策には十分に反映されていません。というのも、クルマ社会という現象の全体を総合的に捉える視点、そして、クルマ社会なるものの価値を主体的に判断し、表現する努力が欠けているからです。
コメント
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私は、日本最大の路面電車都市で生活しています。原子爆弾、そしてモータリゼーションから立ち直った、街の魂のような存在です。LRTが広まらないのは、既存の路面電車のある都市でもチンチン電車レベルであることも挙げられると思います。私の街でも、自転車以下の速度で都市交通を担うレベルではないと厳しく非難されています。まずは車両を全部バリアフリー対応に替える必要があります。
また、僅かな赤字でも切り捨てられる民間事業者に対しての手厚い支援が必要でしょう。
今年、世界各地で過去最多の路面電車が開業します。世界から笑い者にされないような、まちづくりをしなければなりません。
私が住んでいる市でも LRT 導入について議論を同じように続けています。
当時(1998年ころ)の運輸省が導入促進を始めたのがきっかけです。
説明資料では、モノレールと AGT が比較対象として挙げられていました。
これらの比較においては、LRT がコスト面で優位に立ちます。
しかしながら、比較対象にない BRT との比較においては、輸送力では
LRT がわずかに優位でしたが、コスト面では圧倒的に BRT でした。
行政に言いたいのは、優位かもしれない交通手段が後から出てきたとしても
再検討もせず、猪突猛進のごとく整備を進めるのを止めて欲しいと言う事です。
少子化が進む中、補助金はあるにせよ、1kmあたり、30億円近い整備費を
一地方自治体が負担するものではないと思っています。 背伸びしすぎです。
BRTかLRTかという議論がよくありますが、単なるコストだけでは比較できません。集客力や求められる輸送力(集客力や輸送力が高いのはLRT)によって選択されるべきです。
自分は仙台市から金沢市に移住した者です。金沢ほどの人口を抱えた都市において、“新”交通システムと呼ばれるものがサービス性の低いバスであるということに、移転した当初から疑問をもっておりました。コミュニティバスの導入なども見られますが、それらはあくまで都市の延命策であって都市の根幹を立て治すのではないと思います。しかし、この社会を疑問視する人がそもそも少ないということが、現状が維持されている大きな要因であると考えられます。もし、車がなくとも暮らしていける都市を想像することができたならば、人々は車を利用し続けるでしょうか。まずはそのような意識改革が出来ないものかと考えております。
車を擁護するわけではないことを前提として話します。あなたは車そのものに関する未来を見ていませんね。車はいずれ全てが電気自動車になります。石油はいずれ無くなるのだから、これは確実です。排気ガスを出さずに済む自動車の時代になれば、ここで述べた環境問題は論点が外れていますよ。