漫画思想【05】人間の強さと弱さ ―『幽遊白書』―

決戦

 大会の決勝戦で、幽助と戸愚呂は戦います。戸愚呂は幽助が憤怒で力を引き出すことを理解していたため、幽助の仲間を殺して怒らせようとします。仲間を殺されたと思った幽助は、自分自身を許せないという怒りとともに自身の力を引き出します。
 戸愚呂は、幽助が同じ強さの境地に近づきつつあると言います。それに対し、幽助は違うと否定します。

戸愚呂「心が痛むかな。くくくくくくく。“はしか”みたいなものだ。越えれば二度とかからない。今お前は無力感に病んでいるのだろう!? 強くなりたくないか!? もっともっとだ!! オレと同じ境地に!! 他の全てを捨ててでも!! それが今だ!! 強く信じろ。力が全てだと!!」
幽助「オレは、あんたと違う。オレは捨てられねーよ。みんながいたから、ここまでこれたんだ。」

 戸愚呂は、幽助の甘さを指摘し、幽助はもう一人で十分なのだと言います。それに対し幽助は、正直に戸愚呂の強さに憧れていたことを告白します。絶対的な力の差を見せつけられても、その強さに憧れていたのだと。しかし、ようやく戸愚呂が捨てたものの重みが分かったことを告げ、戦いは最後の佳境をむかえます。
 戸愚呂は、フルパワーで幽助へと向かいます。戸愚呂が、何か一つを極めることは他の全てを捨てることだと叫ぶと、幽助は、それは逃げただけだと指摘します。幽助の最後の攻撃によって、戸愚呂は倒れます。戸愚呂は最期に、「他の誰かのために、120%の力がだせる・・・。それが、お前達の強さ・・・・・・・・・」と言って死亡します。

強さの意味

 戸愚呂という人物は、作中で特別な役割を果たしていたと思います。主人公である幽助を導く役割です。作中の登場人物の内、二人が戸愚呂の胸の内を推測して発言しています。

「オレには彼がずっとこうなることを待ってたような気がしてならない。本当に強い者が自分を倒してくれることを・・・。悪役を演じ続けてでも・・・。」

「たとえ優勝して敵(かたき)を討っても、自分自身の中で罪の意識が消えなかったのだろうな。それからのヤツの人生は償いというより拷問だ。強さを求めると自分を偽って・・・。全く不器用な男だ。」

 あの世において、戸愚呂と幻海が会話を交わしています。戸愚呂は、幽助にはまだ幻海のお守りが必要だと言います。間違えば自分のようになってしまうからと。戸愚呂は幻海の現世への帰還を、自身が苛酷な地獄へ行くことと引き替えに、閻魔大王(の子供)と取引していたのです。
 戸愚呂が最後の最後に出した言葉は、負かされた対戦相手の心配だったのです。幻海は、バカは死んでもなおらないと言うと、戸愚呂は、世話ばかりかけてしまったことを謝り、地獄へと向かうのです。

「魔界の扉編(仙水編)」

 次は、「魔界の扉編(仙水編)」から、人間の強さと弱さついて考えていきます。「魔界の扉編」は作中でも人気があります。そこでは仙水忍という敵役が、人間でありながら、人間を滅ぼそうとします。そのため、魔界の扉を開き、妖怪を人間界に呼び込もうと画策します。
 主人公の幽助は、妖怪退治を行う霊界探偵であり、敵である仙水はその前任者です。妖怪から人間を守るはずの霊界探偵を経験した二人は、互いに敵として対峙します。
 主人公である幽助と、その仲間の桑原は、次のような会話を交わしています。

幽助「人間が人間を滅ぼそうとする理由か。」
桑原「その日暮らしのオレ様にゃ想像さえつかんぜ。」

 なぜ仙水は、人間を滅ぼそうとするのでしょうか。それは、仙水が探偵業務の任務中に、見てはならないものを、「人間の酷悪の極みともいえる営み」を見てしまったからです。その「悪の宴」は、「人間が欲望のままに妖怪を喰いものにしている光景」でした(この地獄絵図は、『コミック版14巻p170,171』または『完全版Vol.11 p230,231』で見ることができます)。
 それから仙水は、「黒の章」に異常な興味を示し、人間そのものに疑問を持ち始めます。黒の章とは、人間の陰の部分を示した犯罪録(ビデオ)です。黒の章には、人間がおこなってきた罪の中でも、最も残酷で非道なものが何万時間という量で記録されています。
 仙水は、人間の存在そのものに悪を感じ、人間全てに罪の償いを求めようとします。彼は、「人間は生きる価値があるのだろうか。守るほどの価値があるのだろうか・・・」という疑問を抱きます。彼は、「オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ。嫌いなのは人間だけだ」と言い放ちます。彼は、戦い敗れた後、次のような言葉を残しています。

仙水「世の中に善と悪があると信じていたんだ。戦争も、いい国と悪い国が戦ってると思ってた。可愛いだろ? だが、違ってた。オレが護ろうとしてたものさえクズだった。」

 結果的には、仙水は破れ、幽助は勝利します。しかし問題は、主張の優劣が戦いの勝敗を決したわけではないということです。私の見る限り、仙水の意見を、幽助陣営は論破できていません。そもそも、論破しようともしていません。ただ、幽助がわは、自身の価値観に立脚して戦っているだけです。つまり、互いの言い分を、一旦は五分のものとして、そこにおいて比較検討するという作業は為されていないのです。
 では、もし仮に、その地平に立ったならばどうなるのか。その問いをどう受取るかは、一部の読者の問題です。その問いを、問いとして認めてしまった一部の精神が、紡ぐしかないのです。

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西部邁

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