保守主義とケインズ主義

ケインズ「一般理論」の提言

ケインズは「一般理論」の冒頭で、「古典派理論(=自由主義経済学)は、実際の経済社会の特徴とは違った特殊なケースにしか当てはまらない、間違った方向を示す経済学である」としています。彼は、経済合理性を備えた個人や企業によって経済全体が構成される「完全競争」の前提に立った古典派理論が導き出す、

「現実に発生している失業は、お金を単位として表示される『名目賃金』の引き下げに対して、労働者が自分の意志で合意していない(言い換えれば、『働かされることのデメリットと、物価の影響を加味した実質的な労働所得を手に入れることのメリットが釣り合っていない』と、自ら合理的に判断している)結果であって、『非自発的な失業』には該当しない。したがって、(政府が)余計なことをしないのがベストの状態である。」

という結論を「非現実的」と批判します(反論材料として例えば、「名目賃金がそのままの状態でインフレが実質賃金を低下した場合でも、労働者の供給が特に減る訳ではない」という現実を指摘しています)。
そして、現実の経済では「『名目ベース』の所得の流れが人々の行動に強い影響を与える」(経済学で「貨幣錯覚」と呼ばれる現象です)がゆえに非自発的失業が不可避であり、そのような時には、政府が公共事業を通じて社会全体の総支出(=総所得)を増やすことによって名目所得、すなわちお金の流れを生み出すことで「完全雇用」を実現すべきである、という議論を展開します。

ケインズ経済学のその後

第二次世界大戦後から1970年頃にかけては、上記のようなケインズ経済学、あるいはケインズ経済学と新古典派経済学をつなぎ合わせた「新古典派総合」が経済学界でも主導的な地位を占めたものの、ミルトン・フリードマンに代表される新古典派ベースのアンチ・ケインズ経済学が盛り返して現在に至っています。

その背景には1970年代のスタグフレーションなどがあったのも事実ですが、そもそも上述した「アメリカ的保守主義」のもとでは、「必要悪」であるはずの政府に積極的な役割を認め、あまつさえ「『お金を穴に埋めて掘り出させる』という、全く無駄に見える公共事業であっても、何もしないよりはマシ」というケインズの考え方は受け入れ難い、という事情もありました(無駄な公共事業に関する記述には、実際には「本来は経済合理性に適った事業を行うべきだが、なまじ事業性にこだわって実行が遅れるくらいなら」という前提がついており、この部分はしばしば曲解されています)。
実際、アメリカで反共産主義運動(マッカーシイズム)が激化した1940年代終わりから1950年代半ばにかけて、ケインズ経済学は「マルクス経済学と並ぶ危険思想」と位置付けられてさえいたようです。

こうした流れの中で廃れていたケインズ経済学ですが、「サブプライムバブルの崩壊→リーマンショック」を経て自由主義経済学の行き過ぎが明確になり、改めて注目されるようになっています。

社会思想家としてのケインズ

ケインズ自身、自分の理論に対する「アメリカ的保守主義」からの批判は想定しており、それに対する答えを「一般理論」にもあらかじめ用意していました。
それは、「投資の社会化(公共事業)は国家社会主義体制を主張するものではなく、伝統的な個人主義の長所を上手く発揮させ、将来の改善が有効に機能するための『多様性』を保持するためのものである」というものです。
すなわち、生産要素の最適な配分をもたらす自由主義経済の長所を認めてそれ自身を「保守すべき多様性」の一要素として伝統に取り込む一方で、そのメカニズムが適切にて発揮される(=個々の意思決定が道理に適ったものになる)重要な前提こそ「完全雇用」という国民全体の経済的な充足である(そして、民間任せでは完全雇用が実現しないため、政府による「支出主体」としての経済活動への一定の関与が必要である)、という考え方で、「衣食足りて礼節を知る(=経済的な充足を得ていれば、過度な経済合理性に偏った意思決定をする必要がなくなる)」ということわざにも通じるものです。

こうした考え方は、伝統保守的な近代合理主義への懐疑、新自由主義的な極端な自由主義のいずれとも一線を画した、保守主義の1つのあり方ではないでしょうか(あえて言うなら、自由主義を絶対視せず、「自由主義が適切に発揮される制度」の保持を重んじた、「修正資本主義」ならぬ「修正経済保守主義」)。
こうした懐の深いケインズの発想は、恐らくは政府高官、学者、投機家、実業家等々を股に掛けた、彼の幅広い経験に裏打ちされたものなのでしょう。
先行きが不透明な状況でややもすると極端な議論が横行する中、単に財政政策の重要性を提唱した経済学者としてだけではなく、社会思想家としてのケインズについても、今一度見直される価値があるように思います。

上記で述べたケインズの思想は、「一般理論」では主に第24章で展開されています。
少々長くなりますが、該当する記述をご紹介して本稿を締めくくりたいと思います(極端な自由貿易主義を批判的に検証した第23章も一読の価値ありです。翻訳された山形浩生氏のサイトで校正前の翻訳全文や要約版を見ることも可能です)。

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西部邁

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コメント

    • Johnb984
    • 2014年 7月 19日

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