「容姿がいい人は実際得をする」
また恆存はウーマンリブのやかましいころ、雑誌『婦人公論』に「私の幸福論」という文章(現在ちくま文庫で入手可)は、思想等の素養がない読者にもきちんと伝わるように書かれていますので何となくハードルを感じる方にお薦めの一冊です。この本のざっとした内容といいますと、
「世間の幸福というお題目に踊らされずどこまでも冷静であれよ」
ということです。少し例に触れますと、
「容姿が良い方が人間得をするんじゃないか」
「容姿を重視するのはおかしい、人間中身だろう!」
という身近な世間的な論調、多くの人が語るのをそこでやめてしまい、口はぼったくなるのにも関わらず生涯打ちひしがれなければならないあの話題に関しても淡々と言葉を繰り出します。
「容姿がいい人は実際得をする」
と、実際恆存が容姿に因って判断を下した経験等を交えて日常的な言葉を遣って語っています。また加えて、「短所を補うべくして伸ばされた長所は必ずどこか虚しいものだ」というような意味のこともいうのです。そして美しく生まれついてそれにおんぶにだっこで来た女性がやがて歳と共に容姿が衰えていき、内面の成長なく、まだその容姿の良さだけにすがっているのは「親の遺産で居食いしていたため一文無しになってしまった乞食になってしまったもののようなものだ」と。
安易な解決策を求めるよりも、考える事の重要性
私は大学で国語教育の専攻でしたが、それ以外の学部専攻の人や、社会に出てから出会う殆どの人たちが、往々にして村上春樹、宮部みゆき等ベストセラーを中心に読んでいる現状を鑑みるに、高校の国語の教科書が古い文学や自分が読みにくい文章を読むほぼ最後の機会ではないかと思っています。
「こころ」や「舞姫 現代語訳」などもまあ良いところがないとは言えないのですが、思春期の若者たちが福田恆存の「私の幸福論」の先述の一節「美醜について」を読んでいれば、あんなに半分義務感の様相でストレートパーマは流行ったりしないだろう、“キョロ充”と呼ばれるような空虚なことを見つめるのを避ける人物もかなり減るだろう、なにより救いがないにせよ何かしら冷静な覚悟を得る部分があるだろうとしみじみ考えるのです。
福田恆存は学校教育では殆ど登場せず、文学史をメインに据えている現在の国語教育の現状では、安直なドラマ性のない、いまいち派手さに欠けると見られてもしょうがない(かれは戯曲も書き、晩年劇団“昴”を率います)福田恆存の文章が受けないことも分からないではありません。
著書の表題も『私の国語教室』や『福田恒存評論集 第7巻』ではセックスドラッグロックンロールの若者たちには訴えかけるものが薄いのでしょう。しかし今挙げたものに限らず福田恆存の文章は日本人のみならず正確に翻訳されることを前提とするならば、広く人類に読まれてよいものであると考えます。少なくとも大人になって勢いだけでは自分が成り立たないと少しでも思い至った人間には薬となることでしょう。
私たちは生涯悩みます。私たちはどうしようもないことがどうしようもないがために煩悶し、それを乗り越えようと行動します。ですがその行動の根拠へ拙速に取り付いてしまうと、どこかに齟齬が遅かれ早かれやって来るのです。その齟齬の修正を今「イノベーション」だとか呼んでいるに過ぎない、ほとんど気分転換の域を出ないのではないかと私は考えています。
単なる漸進、修正主義的姿勢と本当の保守思想を分ける点はそのあたりに在るのではないでしょうか。悩むとき見たくない点を見ないようにすること、誰頼んだ訳でもないのに勝手に自分を脚色してそれに固執することこそ、悩みから解放されない要因となるのです。福田恆存の文章は、解決はせずとも冷静に見つめ受け入れて、できることからしようではないかという姿勢をもつ手助けになります。
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