関岡英之先生と産経新聞の事件に関して、言論は何から自由であるべきか
- 2014/7/31
- 社会
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言論は何から自由であるべきか
もっとも、正直に申しますと、私は、主催者の『正論』の論調や「移民問題トークライブ」の内容全てに、頭っから論を同じうする者ではありません。しかし、大衆理論に屈しないこうした言論は、人に物事を考えさせる一つの切っ掛けに成り得るはず。この場合、移民というものが、人や人の集団にとってどのような事か……ということを想像しはじめる切っ掛けになったはずです。
特に関岡先生はそうした事を意識しつつ、あえて分かりやすく反日国家からの戦略的移民に焦点を絞って、言葉を受け取る方々に寸鉄供さんと、論を展開されたのでしょう。それが、あのように歪曲されてしまっては台無しです。
私は『表現の自由』という言葉が大嫌いですが、そうした意味では表現は自由であるべきなのです。つまり、表現、言論は、「大衆」から独立していなければいけない、という意味で。
勿論、「表現の自由」は、金科玉条の価値として崇められるべきものではありません。というのも、いかなる表現も『正統なるタブー』は侵してはならないからです。
分かりやすく単純に言えば、「皇室タブー」を侵す表現の自由などあってはならんでしょう。皇室タブーだけではなく、国家、社会、共同体には「タブー」があり、中には「正統なるタブー」が存在するのであるから、これを侵す「表現の自由のケンリ」など、何人たりとてありません。
一方、表現および言論は、「大衆(多数者)」からは自由であるべきなのです。何故なら、大衆、多数者の刹那的気分、雰囲気をそのままで大量に代弁し、流布する言論は、国家、社会に害悪以外の何物ももたらさないからであります。
大衆大量メディア官営論
マスコミは「表現の自由」を副将軍の印籠がごとく掲げはするけれども、実の所、人権団体の、不満解消に起因する言葉狩りに、次々に迎合してきたように、彼らの表現の自由は『大衆』に雁字搦めに制限されているではありませんか。
民営報道は、少数派、つまり異端言論を歪曲せずに報道してはじめて、人に考える切っ掛けを与えます。彼らは、この一時においてのみ天下国家に貢献しうるのであって、単に「これがありました」「あれがありました」という事を大衆目線でしらしめるだけであれば、大衆向け報道機関はすべて官営にしてしまえばよろしい。
そう、産経新聞を含め、寡占的巨大マスコミ……大量の情報を大量の人間へ報道する巨大な機関というものが、利益を第一義と追求する者の手にあること自体、不健全なのです。何故なら、大量の人間へ向けて報道し利潤とするのであれば、言論が大衆から強い不自由を受けないわけにはいかなくなるからです。
そうした意味で、メディアの寡占化は政府によって『規制』されて然るべき領域でしょう。そもそも、民営報道機関がある程度の規模以上に成長し、報道市場を席巻する事は規制されなければならなかったのです。
こうしたことを言うと、「表現の自由の侵害だ!」とのたまう輩もおられるでしょうが、そうではありません。民営大規模メディアを規制によって廃止すれば、メディアは『大衆』から解放されるではありませんか。つまり、中、小規模メディアとして。
言論を大衆的精神の従属下に置かない為……もっと言えば、言論を大衆から保護する為、民営報道機関の規模には制限がつけられて然るべきではないでしょうか。「表現の自由」における最大の敵は、政府などではなく、各人に潜む大衆的精神なのですから。
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