フラッシュバック 90s【Report.34】日本礼賛番組と一人当たりGDP
- 2016/5/18
- 社会, 経済
- 90s, feature3
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このゴールデンウィーク、比較的時間があったので実家に戻った際、テレビを少し眺めてみました。
噂には聞いていましたが、徹底的に日本を褒めまくる番組の増えていることに非常に驚いてしまいました。
少し前に見た番組では、日本の警察を西洋の警察が視察に来て、褒め称えるといったものでしたが、今でもあの西洋の警察はどこかの事務所に所属した外国人タレントだったのではないかと思ったりしています。
90年代なら、このようなヤラセも都市伝説の1つぐらいですんだかもしれませんが、今は1人が1台スマホを持っている時代。下手なことをしては炎上しますから、まぁ、役者をあてがうようなことはしないでしょうが。
私は、この日本礼賛番組の根底には、日本人の自信喪失があると思っています。
増殖している共感型番組。
日本礼賛番組を見ていて思うのは、「皆さんもすごいと思いませんか?」といったような共感を視聴者に求めてくるところです。
個人的に言わせてもらえば、要は視聴者に対して、独自の解釈を許さない番組作りになっているわけです。私は、これを「共感型番組」と呼びます。
言わずもがな、90年代にも共感型番組はありました。しかし、それもごく限られたものだけです。例えば、バラ珍のように生き別れの両親と再会する感動を共感するぐらいでした。
この共感型番組、私にはいくつか罠があるように見えて仕方ありません。
共感型番組の罠。
共感型番組の構造としては、番組内に暗黙のルールが提示されます。
例えば、バラ珍のような感動の再開を演出する番組であれば、生き別れた両親や恩人に会いたいという人の願いは叶えられるべきであるという前提です。
本人の境遇VTRなどを見ると、突っ込みどころも出てくるような面もありますが、そこは不問にし、目の前の感動に共感するということが条件になります。
この構造が、バラエティやドキュメンタリー、クイズの審査基準などにまで用いられるといよいよ、テレビは暗黙のルールだらけになっていくわけです。
先日なんかは、やさしい人にしか解けないクイズという番組もありましたが、あれなどは、もはや共感を作り出す装置以外の何者でもないわけです。
日本礼賛番組に隠れる暗黙のルール
では、「日本すごい!」と外国人にやたらと賛美される日本礼賛番組にはどういった暗黙のルールが存在しているのでしょうか。
番組の作りとしては非常に単純で日本で当たり前の慣習や風景を取り上げ、外国人にそれを見せることによって驚かれたり、あるいは日本で有り余るものが外国で流行していたりすることを発見し、「日本すごいね!」と結論付けられるわけです。
結論からいえば、日本、あるいは日本人が自らを相対的に判断する価値基準を持ち合わせていないという暗黙のルールが横たわっています。その前提があるからこそ、外国人から褒められることによって、自信を取り戻すというわけです。
これは非常に危険な状態です。というのも、日本人が自ら選択して歩んでいく道や方向性は、他者(外国人)を介在してしかわからない状況です。逆に日本人で日本の方向性を批判や議論の対象にすると、村八分の対象にもなりかねない、危険な状態ではあるわけです。
裏返して考えれば、日本や日本人が選択して歩んでいく道は成否がわからないという自信喪失状態に日本人が陥っているともいえます。
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