「最近の若い人は、人を殺すことを何とも思っていない。」
「透明な存在の自分」
「若者はキレると何をするかわからない」
こんなことを大真面目な顔をして、様々な肩書きを持った人間たちが、新聞、雑誌、テレビで言いたい放題していました。1997年、神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件です。
事件は、被害者の11歳の少年の首が学校の門に置かれていたというセンセーショナルな内容で、なおかつ犯人が当時の少年法の対象となる14歳だったということもあり、その犯罪のインパクトにプラスして周辺での議論を呼んだわけです。
無責任にマスメディアで加害者論を振りかざす人々
当時のマスメディアの論調は間違いなく、加害者側でした。
街角インタビューでは、私よりも少し目上の年代が
「あるある、人を殺したくなるときとか」
「マジでむかつくやつとかいるよね」
「透明な存在だと思ったこととかありますね」
などと、したり顔で述べていました。
当時、私は殺された被害者側に近い年齢と言うこともあり、自分の目上の年代がこのような殺人を犯したことに恐怖を覚えていていました。少なくとも自分が加害者側になるような論調に違和感を覚えていましたのですが、マスメディアではその逆をいくかのように、加害者よりの情報を提供していたわけです。
そして、そのVTRや取材班の作成した資料を元にして、様々な肩書きを持った人々が「あーでもない、こーでもない」と述べていくわけです。
今振り返ると、80年代後半からポストモダンの流れが主流化していき、冷戦崩壊した90年代において、権威が崩壊し、サブカルやオーソリティーの壁も取り払われた無差別な状態だったわけです。
学者を初めとしたそれまで権威が、マスメディアにおいて芸人化していき、視聴率や購読数という形で支持された人々がまるでテレビ宣教師のように考えを述べ、自らの論理を浸透させていく構図が出来上がっていったのを見せ付けられた事件の1つでした。
置き去りにされた死者と遺族
この事件に関連して、大きく議論を呼んだ1つの話題に、新潮社が発行していた写真週刊誌「Focus」の少年Aの顔写真掲載がありました。
元来、少年法は犯罪を起こした少年の将来的な更生を目的として、加害者である少年を守る法律であり、そこに配慮したマスメディアは少年Aを特定できるような情報を可能な限り報道しませんでした。
その一方で、事件の詳細を伝えるうえで、被害者の顔写真や名前、その他プライベートな情報を大量に流出させました。特に亡くなった、土師淳君に関してはお構いなしで連日報道の資料に用いられていました。
その流れに対するカウンターとでも言いますが、そこが新潮社らしいところでもあるのですが、少年Aの顔写真を掲載してきたのです。これに対して、駅の売店などでは当該の「Focus」の発売を中止するなど、非常に議論を巻き起こしました。
私は、その顔写真の是非をいまさら問うつもりはありませんが、何よりも、マスメディアがこの議論で露呈した姿勢は「現世利益最優先」ということでした。
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